2009年12月20日日曜日

山本光雄訳「イソップ寓話集」

「いいかね、倅たち、お前たちも、もし心を合わせていれば、決して敵に負けることはないだろう。」

ギリシャ時代のアイソポス(イソップ)による寓話集。寓話があって、それから何を学ぶかというのがセットになっている。教養として読んでおくのはいいのだけど、あんまり面白くなかった。
引用は三本の矢の話と似ている話。世界中で同じような話があるのは本当のようだ。

評価:☆☆
(1-5で基本は2)

2009年12月17日木曜日

ヤマダの店員

ヤマダ電機の店員が説明しましょうかと言って近付いてきたが、帰るつもりだったので結構ですと言ったら、舌打ちをされた。
翌日、同じ値段のものをビックカメラで買った。

2009年12月16日水曜日

科学者の話

大学時代の友人は生命科学の研究をしている。動物の進化を考える時に、ある時に生殖の仕方が変わったそうなのだ。彼は、それはヒトデあたりではないかと考えている。
この研究は、人間の不妊治療にも役立つ可能性があるそうだ。
この面白い話は、何に役立つかを考えた瞬間につまらなくなった。ただ単に追究して私に教えてほしかったし、彼自身もそんなに応用に興味があるようには思えなかった。

2009年12月15日火曜日

研究思索費

「研究試作費」が変換ミスで「研究思索費」と出た。それはそれでいいかもしれないと思った。

2009年12月14日月曜日

2年目の会社員と同期のD2

数学科のD2の3人と会った。一人はそろそろD論を提出して、Dを2年で修了するようだった。一人は修士時代とても優秀であったが、今は何故か自信をなくしているようだった。最後の一人は企業をまわって就職を考えているようだった。
突然数学の話がはじまった。多様体でハウスドルフ性を仮定している理由がわからないという。会社員の一人が、それを仮定しないと重要な性質を持たないからではないかと言ったが、質問者はではそもそもその性質はそれほど重要なのかと返した。そして、話は変わり、チコノフの定理って位相空間論で名前はきいた覚えがあるけど、どんな定理だっけという話になった。
昔の数学の感覚は徐々に戻ってきたが、昔あの場所にいた感覚は2時間話した程度では戻ることはなかった。今でも彼らは数学の世界で生きていて、私はそことは少し違う場所を選んだことに改めて気付いた。

2009年12月13日日曜日

科学技術社会論学会:第8回年次研究大会(2009)

すごい発表をひとつだけ挙げると、小林先生のものであった。

グローバルなパブリックコンサルテーションの実験:WWViewsという試み 小林傳司(大阪大学)
2009年9月26日に世界中でCOP15の前に市民の地球温暖化に対する意見をまとめようという試みがなされた。欧州が中心となって企画し、他の国々が参加していった(させられた?)という企画である。(朝日新聞やNHKなどにも取り上げられて、開催日には民主党の副大臣も挨拶している。)欧州3カ国が方法のたたき台を決めていき、他の参加国が意見を述べて方法が決定されていくそうだ。しかし、英語で毎回意見を言っていけたのは欧米以外では日本のみであり、多くの国々は欧州のやり方に巻き込まれていったしまっただけとのこと。結局、グローバル(という名の欧米の)の社会実験に参加させられただけかもしれない、しかし我々の世代ができることはここまでだった、という無念を発表していた。日本の場合、欧州のように政府から独立しているテクノロジーアセスメント機関がないため、お金集めが非常に大変だったそうだ。「日本はゲームの提案能力はあるのか?」と述べていたのが印象的。
あまりにすごい発表なので、涙した。

2009年12月12日土曜日

数学科だから2

飲み会の割り勘をすぐにできると思われているが、数学科は概算や暗算が苦手な人が多い。むしろ、その食事代が人数で割り切れるかどうかの方が興味深い。

2009年12月6日日曜日

およそ○分の1

12月2日の朝日新聞に「約5700人中約1500人」を5分の1と表現していた。一方、同日の日本経済新聞では4分の1と書いていた。(なお、日経には母数は書いていない。)単純に1500÷5700は22%である。これは5分の1の方が表現が適切であると思う。
昔、テレビで「28%、およそ3分の1」と言っていたが、これはやはり4分の1だと思う。
言い換えは必ず主観を含む。気をつけないとな。

2009年12月4日金曜日

数学科だから

同僚に統計の質問をされた。数学科だから知っているでしょ、ということらしい。私は数学科だからわからないと答えた。数学科では統計が必修になっていることはないし、私は統計を使ったことがない。
(もちろん、統計を知っているにこしたことはないので、早く基本くらいは勉強しようと思っている。)

2009年11月28日土曜日

小林多喜二「蟹工船・党生活者」

「私は自分の犠牲も、この幾百万という大きな犠牲を解放するための不可欠な犠牲であると考えている。」

「党生活者」では共産党員である主人公の日常がつづられている。主人公は共産党が軍国主義の日本を救うと考えており、自分の身の危険も省みず活動を行う。
同じ意識を共有している仲間達との青春小説のようにも見えるが、行っている活動は現代の私にはあまりよくわからない。資本家を敵に回しても何も解決しないような気がするが、当時は資本家による労働者からの搾取がひどかったのだろう。
何故この小説が現在流行っているのかはいまだによくわからない。

評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年11月27日金曜日

ラジオを聴く

テレビのニュース風バラエティにはコメンテータが多く登場する。あれだけ多く登場すればしゃべる時間は短くなる。人件費がもったいないと友人に言うと、テレビのコメンテータはその程度の時間をしゃべるのが限度でそうだ。
平日はJ-WAVE「JAM The World」を聴いて、TBSラジオ「アクセス」というのが普段の流れである。一人当たりの話す時間が長いので、ニュース報道の裏側の解説があり、とても面白い。
ただ、気をつけなくてはいけないのは、その一人の意見の妥当性は自分で判断しないといけないことである。立派なことを言っているように聞こえても、実際は裏付けのない思い込みの意見であることは多数である。
これでも、聴き続けてしまうくらい面白いのだ。

2009年11月26日木曜日

益川敏英氏と私

プログラムを書いた後、自分のやっていることを整理するためにリファクタリングを行う。これは清書のような作業である。すると、苦労して時間をかけて書いたコードは、結果的にはとてもコードが時間が短くなる。
数学をやっていたとき、とても苦労して苦労して閃いたことを書いていると、何故こんなことが早く思いつかなかったのかと思うのがいつものことだった。問題を解いたその瞬間のみが嬉しくて、その後は自分に対する実力のなさが悔しさを長く感じていた。
日本経済新聞2009年11月21日の「私の履歴書」で物理学者の益川敏英が「いったん論文にまとめてしまうと、私はその問題について関心が失せてしまう。なんだ、自分はこんな簡単なことに四苦八苦していたのかという気持ちになる。」とCP対称性の破れの論文に関して述べている。私は益川氏の足元にも及ばないが、一緒の感情を有していたことに驚いた。

2009年11月25日水曜日

具体と抽象

工学者が「論理式を解いていくのはとても抽象的でよくわからない」と言う。彼は分子や原子など実際にあるものを見るほうがはるかに楽だそうだ。
その場にいて数学博士と私はこの考えがわからなかった。というのは、論理式や数式の方がはるかに実体を伴ったものであり、分子や原子は抽象的過ぎてわからない。
具体的なものと抽象的なものはお互いに違うことがわかった。ものごとを理解するには具体的なものを用いる、言い方を変えると、例を用いた方がよいというのはよく言われることであり、私自身もそう思う。抽象的なことをよく理解している人は具体的なよい例をつくれることが多い。
具体的か抽象的かはそれにどれだけ触れているかというのも関係しそうである。私が数学をやっていたと言うと、他の人からは物理が得意だと勘違いされるが、私は物理学は高校レベルでもよくわからない。もちろん物理ができる数学者はたくさんいるし、大学の幾何の研究者からは高校時代に物理学をきちんと学ぶように言われた。ただ、私は物理が本当なのかどうかわからなくなり、そして問題を解くときに勝手に文字を登場させて解答にもその文字を残したままという発想が理解できなくて、物理からは遠ざかった。私には具体的な物理現象というのは何にも思いつかない。一方、数学ならある程度具体的な例を作れるとは思うが、どんな例をつくっても抽象的と言われる。昔、層の例として実数空間(0,1)の無限回微分可能な実数値関数の全体を挙げたら、そんな抽象的な例ではわからない、と言われた。とても具体的な例だと思って説明したのだが、相手にはそうではないらしいことがわかった。
抽象的なものを理解するには具体的なものを扱ったほうがいい。理解しようと具体的なものを散々触ってみることが抽象的なものを理解するのが一番よい方法のようである。

2009年11月24日火曜日

John Grisham "A Time To Kill"

This book describes a conflicts between the white and the black in the states. A lawyer is charge in a defence of a black man. Then the people around him were afraid of the whilte and attacked by the white, KKK.
I read this book in a high school days. At that time, I felt it was difficult, but now I enjoyed it very much.
John Grisham's famous book seem to be this and "The Firm". I have a the latter, but I don't know why. I will try it.

Score: 3 star

2009年11月23日月曜日

Sidney Sheldon "Master of the Game"

There is no description of deep charactors' mind. This book is like a script.

Score: 2 star

2009年11月22日日曜日

聞いた言葉4

社会から必要とされなくなった技術は退場するだけ。

―大学教員(原子力ヒューマンインターフェース)

2009年11月21日土曜日

森永卓郎は経済学者ではない

http://read.jst.go.jp/
これで「森永卓郎」と検索してもヒットしない。
それでよく経済学者と名乗れるものだ。

2009年10月30日金曜日

「岩波講座転換期における人間7 技術とは」

「人間は一体どこまで自己を「外化」するのだろうか。その限界はあり得ないのだろうか。「外化」したところで人間は何を得たのだろうか、そして何を失ったのだろうか。」

機械化の基本的な概念の一つは、機械でできる作業は機械にやらせることである。人間がやっていた作業を機械ができるなら、人間はより機械にはできない作業を行うことが出来る。これは、人間性豊かな暮らしを行う時間が増えることであり、望ましいことである。
機械化が進むことで雇用が失われているという側面は存在している。また、機械ができる作業に対して大きな喜びを感じていた人は、それができなくなり疎外感を得るようになる。

中岡によれば、過去の人間の社会生活の大部分は生産活動が主であり、「技術と労働と人間たちの人生の間に強いリンクが存在した社会」が存在していた。しかし、現在はこれらのリンクが切り離されていった。人々は生活のために労働を行うようになり、生産と消費が分かれる。生産的な人生を行えるのは管理側であり、被管理側は職場でも生活でも消費的生活になってしまう。

技術はいい側面もあるし、悪い側面もある。それでも私が技術者になりたいのは、少なくとも自分のつくる技術は人を幸せにする側面の方が大きいからだと信じているからだ。
例えば原子力発電のように、技術者が作り出した技術はやがて社会問題になり、技術者だけでは技術の妥当性を判断できないものもある。技術者は自分の作り出した技術が社会に出て、そこで悪影響を与えた場合に、責任を取るべきだろうか?技術が社会に出ることを許容した政府が責任を取るべきか?それとも、受容した社会が責任を分担するべきか?私は技術者が新しい技術を出すことを躊躇するようになるから、技術者に責任を負わせるのは酷だと考えるが、技術者は心のどこかに自分の技術の悪の側面を考えておかないといけないとも思う。
技術、これだけ巨大になってきた力を誰が制御すべきか、私は一生考えていく気がする。

評価:☆☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年10月23日金曜日

聞いた言葉3

若いうちに大きな問題から自分の研究開発に結びつけるのはやっておいた方がいい。

-研究者

2009年10月18日日曜日

Steve McConnell "Code Complete 2nd Edition"

"In summary, a primary goal of software design and construction is conquering complexity."

This book covers from design to coding and test. It doesn't recommend a tricky code, not easily understandable one in order to construct with others.
I have read it with my friends in my workplace. They had many opinions about the way to construct a software, so I enjoyed their thoughts.
We would move to a next book.

Score: 3 star

2009年10月10日土曜日

取材を受けた話

ある新聞の取材を受けた。20代の意識を知りたいそうだ。
銀座の喫茶店で記者さんと二人であった。事前に私がしたアンケートをもとに説明をしてくるので、私もある程度このあたりに話が来るだろうとの予測はついていた。匿名取材というのは事前に知っていたので、会社名以外はかなり詳しく話した。
途中から、メモをとっていなかった。単語レベルでたまにとるくらいだった。新聞記者というのはそのくらいのメモから話を再現できるのだと思った。
私が頼んだオレンジジュース代を先方が払った。謝礼などはなかった。

後日、肩書きについてメールが来た。○○関連の会社であることと会社規模を伝えた。

私が取材された記事を読んだ。驚くほど間違いが多い。単語レベルでは間違っていないが、それらの連ね方は間違っている。あくまで今回の私への取材は20代の例として選ばれただけであり、私自身を抽出するものではなかった。つまり、私をもとにして20代の一人を作成すればいいだけなのだ。
知り合いにこの話をしたら、新聞記者は記事を事前に見せることなく載せるのが当然だそうだ。本当に迷惑な話だ。

2009年9月26日土曜日

女性衆議院議員の数

09年8月30日に行われた総選挙では、当選した女性候補は過去最多の54人であった。全議席の11.3%である。(朝日新聞2009年9月19日14版より。)
一方、全立候補者数1374人のうち、女性の候補者は229人であり(wikipedia「第45回衆議院議員総選挙」より)、全立候補者のうち女性の占める割合は16.7%である。
統計局のホームページによれば、平成21年9月1日時点での20歳以上の男女比は48.2:51.8である。
有権者は女性の方が多く、立候補者も女性の方が多く、しかし当選者は女性の方が少ない。このような状況で、女性の国会議員は少ないからクオータ制を導入するようにと主張するのは難しい。

参考:
男女共同参画白書
http://www.gender.go.jp/whitepaper/h14/1_1.html

2009年9月22日火曜日

「一度民主党に任してみるか」

政治家は一般企業の感覚がないと批判されることがある。政府の財政を企業の財政だと考えれば、毎年赤字で経営して、足りない分を債権で補足するのはおかしいらしい。
「一度民主党に任してみるか」という言葉をいろいろなところで聞いた。しかし、これこそ一般企業ではおかしい言葉である。投票権によって国会議員を選んだのは国民である。企業では経営陣を選ぶことが出来るのは株主である。つまり、政府と企業の例えでいえば、株主である国民は日本という企業の経営陣を選んだだから、そのチェックを行うことは責務である。
民主党になって最大の成果は国民の政治参加が形式的なものから実質的なものに変わったことである。国民の意識が変わらないならば、政権だけが交代して、社会は何にも変わらない。

2009年9月21日月曜日

竹内靖雄「経済倫理学のすすめ」

「われわれは倫理問題を、その成立の根は感情問題にあることを認めながら、できるだけそれを感情のレベルでは処理せず、可能な限り「勘定」の問題として取り扱う、という立場をとりたい。」

薬害は非常に大きな社会問題である。治験という言葉はあるが、簡単に言えば人体実験である。しかし、新しい薬を社会に出していくためには、この人体実験をやめさせることはできない。
もちろん製薬会社は最新の注意を払っているが、動物実験での結果を意図的に取捨選択は行っているという話もある。治験段階でのデータの提出は明確に決められているが、それ以前はきちんとしていないと主張する人もある。
製薬会社も薬害はなくしたい。しかし、多くの人間が使えば副作用が出る人もいるのはいたしかたなく、そのために薬を禁止すれば救われるはずの多くの命が失われるかもしれない。多少薬害が出たとしても、ある程度は補償金などを払うことで解決してしまったほうが経営判断として妥当かもしれない。
人間感情はすべてを金銭に置き換えることは不可能であるとの反論もあるだろう。私は最初から不可能であるとは断じず、できるところまでやってみて、少しでも論点、費用対効果が明確になった状態で議論すべきだと思う。

評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年9月20日日曜日

夏目漱石「三四郎」

「この激烈な活動そのものがおりもなおさず現実世界だとすると、自分が今日までの生活は現実世界にごうも接触していないことになる。洞が峠で昼寝をしたと同然である。それではきょうかぎり昼寝をやめて、活動の割り前が払えるかというと、それは困難である。自分は今活動の中心に立っている。けれども自分はただ自分の左右前後に起こる活動を見なければならない地位に置きかえられたというまでで、学生としての生活は以前と変るわけはない。世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わることはできない。自分の世界と現実の世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。はなはだ不安である。」

小説とはこれほどまでに面白いものだったのか。

熊本から出てきた三四郎の東大での学生生活を描写した小説である。とりわけ大きな事件が起きるわけでもなく、三四郎はまわりの学生や教員や女性を観察し、影響を受け、いろいろなところに出かけるが、自分から大きな行動を起こしているようには見えない。
これは青春小説だ。私は今青春真っ只中にいて(自分で思うのは勝手である)、一つ一つの事件が私だったらどうだろうという想像を誘う。


追記:
「「日本より頭の中のほうが広いでしょう。」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ。」
この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。」

この言葉は、場所が変われば自分も自然と変わる、と勘違いしているようにしか見えないのは私だけか?漱石はもちろんわかっていてこの言葉を入れたのだろう。(ただし、根拠なし。)

評価:☆☆☆☆
(1-5で基本は2)


私は昔の版(人からもらったもの)で読んでいるので知らなかったが、現在の表紙はわたせせいぞうなのか。

2009年9月19日土曜日

学者と社会問題とその解決策

とある研究会に行ったときに、ある社会問題の話をしている人がいた。
このような問題がたくさんあるのです、ということを熱弁しているのはわかるが、論点が今ひとつはっきりしない。問題点が明確になっていないのに、それに対して解決策を述べ始めた(ようだった)。しかも、それらの解決策は粒度もタイムスパンもバラバラだった。結局、これでは何も解決しないような気がした。(そもそも問題点を私は把握できていないので、あくまで気がしただけである。)
この学者の言っていることは立派である。しかし、それは本当に現在困っている人を助けることにつながっているのだろうか?学者だからこそ近視眼的ではなく、遠くを見据えている、と反論もあるだろう。しかし、その遠くを見据えた時の解決策の費用対効果が高いとは思えなかったし、評価基準を設けているようにも見えないからやってみたいと夢を語っているようにしか見えない。問題意識を多くの人が共有すれば解決に向かう、と言われても、共有後の行動が不明確である。そもそもこの発表のもとになった論文は、地方公立大学の紀要に提出されたものであり、一体誰が読むのか疑問である。つまり、問題共有という目標に対する、行動としては一貫性を欠いている。
では、学者は解決策を提示し、行動する必要性があるのか、という問いがある。学者の本分は問題点を明確にすることであり、それ以上は領分から外れていると主張する学者もいる。私は、社会科学者は社会問題を解決したがっていると思っていたが、そうでもないらしい。私は自分の持ち場から外れないという態度は否定しない。私は、目標と行動の一貫性が欲しいのだ。
私はまだ力がない。論文や発表を否定しても、私には代替案の提示はできない。だから、今、修行をしているのだ。

2009年9月5日土曜日

最近職場で学んだこと

・いろいろやってみると、意外と賛同者は見つかる。
こんな企画を持ち込んでいいのかと不安になりながらだったが、賛同してくれる人、否定的でもとても納得できるコメントをしてくれる人、アドバイスをしてくれる人、いろいろな人が集まった。

・自分の目指すべき社会を持っていないと人は説得できない。
企画のよさを発表しても、そこに一本自分なりの筋が通っていないと、本当の賛同は得られない。私は技術者として、どんな社会を目指しているのか、早くしっかりきちっと考えなければならない。

・時間はいつでも足りない。
やりたいことがたくさんある。

2009年8月22日土曜日

アポロドーロス著、高津春繁訳「ギリシャ神話」

「ゼウスは夜の間にやって来て、その一夜を三倍にし、アムビトリュオーンの姿となってアルクメーネーと衾を共にし、テーレボエース人に関する出来事を語った。」

ゼウスは妻がいるのに、結構いろいろな女と寝ている。全知全能の神だと思っていたが、そういうわけでもなかった。
登場人物がとても多い。固有名詞の索引のページだけで53ページもある。とても覚えられない。
文章のつながりが人間の私にはちっとも理解できない。訳文のわかりにくさも原因だろうか。

評価:☆☆
(1-5で基本は2)

2009年8月1日土曜日

浜矩子先生の話と、原子力出身の人に文句を言った話

浜矩子先生の話を聞きに行った。
アメリカは裸の王様で、日本は腰抜け王子で、中国は不敵な王子だ、というつかみだった。このままの各国の態度を続けてもダメだということで、最終的には、"one for all, all for one"という精神論で終了した。
経済学の根本は倫理学である。浜先生も経済活動は人の営みであると述べていた。実際にこのような精神で経済活動を行うことは難しいだろうし、今まで人類の歴史で行われてきたことはないかもしれない。だからこそ、今こそ、やらなければならないのだろう。
講演終了後、浜先生に「昔、留学して数理経済学を学んできた日本の経済学者が、数理経済学には哲学がない、と述べていたのを思い出しました。」と感想を述べると、「人間不在の経済学は経済学ではない」とおっしゃられた。

飲み会で原子力関係の仕事をされて、昨年定年退職された方と話した。
「原子力の最終処分方法が決まっていないのに、何であんなもんを作ったんですか?」
「あの頃は問題になるとはわかっていなかった。」
「知らなかったわけないだろう!!」
本気でブチ切れて話すと、握手して帰ることができると知った。

聞いた言葉2

社会を変える技術を考えてくれ。

―技術者

2009年7月27日月曜日

聞いた言葉

論文は一つのいいところで出せる。
製品は一つの悪いところで出せない。

―技術者

2009年7月26日日曜日

ティーク、大畑末吉訳「長靴をはいた牡猫」

「ただ、わたしが長靴をはくのを、何か特別のことだと思ってくれさえしなけりゃいんです。万事は慣れですよ。」

私はこの戯曲は長靴をはいた猫の冒険譚だと思っていたのだが、実は劇中劇として「長靴をはいた牡猫」が上演されており、しかもその話もぐちゃぐちゃ。演劇とは何なのかという概念がこんがらがる。チェルフィッチュの「三月の5日間」を観て以来久しぶりにぐらぐらした気持ちになった。
当時の演劇界を風刺しているようであるが、それを知らないと風刺の鋭さもよくわからない。当時の文化を心に留めながら作品を味あわなくてはいけないのはわかる。ただ、今から18世紀から19世紀に変わり目あたりのドイツの演劇事情を調べようとは思えない。

評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年7月25日土曜日

ポアンカレ、吉田洋一訳「科学と方法」

「事実の重大であるか否かはその産出力、いいかえれば、そのために吾々が節約し得る思考の量の大小によって測られるのである。」

生命科学者を目指している友人から勧められた後に本棚を見ていたら、発見した。高校生の時に買ったのだろうが、読んでいなかった。
ポアンカレが批判している理論は現代の私たちにはあまり知られていないものだろう。かといって、その手法自体は決して古びることはない。
私は自分のしたことが、それにかかった時間よりも、他人がそれに対して時間を使ってくれるものが価値があるものだと思っている。例えば、この日記を10分で書いたとして、読む人全員で10分以上使ってくれれば、その文章が価値があるものだと思っている。私の考えからすれば、古典は、多くの人がその古典の言葉や精神に対して幾度となく反芻することで多くの時間を費やすほどの価値があるため、すばらしい。

評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年7月18日土曜日

都議選は戦略ミス

2009年7月12日に行われた都議選での幸福実現党の総得票数は13401票であり、当選者のうちの最低得票数は千代田区の栗下善行氏(26歳民新)の9872票である。つまり、幸福実現党は千代田区に専念すれば、議席が確保できたのだ。
ついでに言っておくと、社民党の総得票数は20084票である。
東京都選挙管理委員会の資料によれば、今回立候補した党派は、自由民主党、民主党、公明党、日本共産党、東京・生活者ネットワークであり、他は無所属かその他である。社民党はその他扱いだ。2人しか立候補していないなら当然か。
福島みずほ氏のブログによれば、「議席が獲得できますように!」と書いてあるが、社民党の候補者は他の候補者に倍以上の差をつけられて負けている。戦略的に勝とうとしているとはまったく思えない。そして、そのような戦略しかできない党に政治を任せることなんかできない。
またブログには、都議選の応援中に年金問題をある年配の女性から訴えられたとある。しかし、これは国の政策の話であり、都政とは何の関係もない。そんな区別もつかないのか。

http://www.senkyo.metro.tokyo.jp/h21togisen/indexa.html

2009年7月13日月曜日

ゲーテ、佐藤通次訳「若きヴェールテルの悩み」

「「彼女に会える!」朝、目がさめて、晴れやかな気持で美しい太陽を迎えるとき、僕はこう叫ぶ。「彼女に会える!」そして、一日じゅう、僕にはこのほかの願いは何もない。すべてがこの期待の中に呑みこまれてしまう。」

ヴェールテルはシャルロッテに恋をする。そして、その恋はどうなるのか。
恋をするのは暇だから、という言葉があるが、ヴェールテルは仕事をしているくせに暇である。ヴェールテルが友人に書簡を送るという形で話が進行する。ヴェールテルは恋ばかりしていて、暇そうだ。
私は今まで詩人をよくわかっていなかった。詩人の言葉を紡ぎ出す力はとんでもない。一つ一つの言葉が私の中に入ってくる。寝ていても、体の中で言葉がうごめいていた。

評価:☆☆☆☆
(1-5で基本は2)
これはむしろ「若きウェルテルの悩み」として有名だろう。リンクは手に入りやすそうな岩波文庫版「若きウェルテルの悩み」にしておく。

2009年7月12日日曜日

芥川龍之介「侏儒の言葉・西方の人」

「完全に自己を告白することは何人にも出来ることではない。同時に又自己を告白せずには如何なる表現も出来るものではない。」

芥川が一つ一つのテーマについて述べた箴言集である。芸術や作家などに関しては自己が深く関わっているからであろうか非常に面白いのだが、多くのテーマに関してはさほど深みが感じられず面白くない。
一応付言しておく。私は芥川の「枯野抄」が大好きである。

評価:☆
(1-5で基本は2)

2009年7月4日土曜日

下村湖人訳「現代訳論語」

「君子は自分に能力がないのを苦にする。しかし、人が自分を知ってくれないのを苦にしないものだ。」

今、論語を読むと、古臭いと思う部分もある。しかし、もちろん今でも役に立つ部分が多くある。
論語には様々な言葉が収められており、それらは人生のある時点においては、まったく必要性を感じないこともある。しかし、しばらくしたら、ずっと心に留めておかなくてはいけないだろうと感じる言葉が多い。
人生の節目節目、もしくは逆にずっと変わっていないような人生を歩んでいる時に、改めて開くことで人生を考え直し契機を与えてくれる本である。

注:私が読んだ角川文庫版は、現在では手に入らないようだ。PHP研究所版のリンクをつけておく。PHPというだけで残念ながら安っぽくなってしまうが、中身は劣化しないと信じている。

評価:☆☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年7月1日水曜日

G. Polya "How to Solve It"

"What is the unknown? What are the data? What is the condition?"

The reason I read it was that our textbook for software seminar said, "At one time, Microsoft gave this book to all its new programmers."(Steve McConnell Code Complete)
When we solve a mathematical question, we tend to lose our way. We always have to understand what to do, in short "What is the unknown?". We have to know what we have, or "What are the data?". Then we link the unknown to the data, i.e. "What is the condition?".
Polya is a mathematician. But The ideas in this book can apply to any problem. When we face a problem, we have to devide it and change it to solve.

Score: 3 star

2009年6月30日火曜日

サイエンスカフェ ゲスト:本田美和子さん

サイエンスカフェをしました。ゲストは内科医の本田美和子さんで、自分のからだを守ることについてお話していただきました。
本田さんは医師が病院で患者を待っていることには限界があると考え、みんなに自分の体について考えてほしい、と考えています。そのため、このような場で話すことを大事にしています。
また、本田さんの活動としては、ほぼ日の健康手帳「Dear Doctors」が有名です。これは自分の病気や薬の記録を書き込んでおくことで、自分のからだについて考える機会を創出し、病院では医師とのスムーズな交流を手助けしています。

当日は、本田さんがご自信の活動を紹介された後、参加者との意見交換がなされました。お互いに自分の立場から話し、相手の考えを刺激しあう、これがサイエンスカフェのいいところです。

私は、自分が感染症になった場合に、どのようにすればいいのかで悩みました。家族に言うべきか、同僚に言うべきか。感染症に関して正しい知識が広がっていない現状で職場という不特定多数とも言える場所で自分の病気を話しても大丈夫か。もしも、話さずにしておきながら、何かの拍子に同僚に感染させた場合に、話さなかったことは道義的によくないことなのか。ドイツでは感染症だと知りながら、そのことを話さずに男性に感染させた女性が、危害を加えたということで逮捕されたそうです。

私がサイエンスカフェに関わったのは、初めてでした。予想以上に面白かったです。何事も自分でやってみるのがよいですね。

2009年6月29日月曜日

木下是雄「理科系の作文技術」

「初心の執筆者にとっては、自分の書こうとする文書の役割を確認することが第一の前提である。」

理科系の論文や文章をいかにして書くのか、について特化した本である。著者は物理学者で、若い研究者・技術者や学生を対象としている。
この本は研究の仕方に関してはあまり説明がない。あくまで、文章を書いていく際にいかにわかりやすく書いていくかを述べている。
読みたがえがなく、読み返さないように書くにはどのようにすればいいのか、基本的な事柄が多く紹介されているのは、やはりそれらが重要だからだろう。

追記:
「必要ギリギリの要素は何々かを洗いだし、それだけを、切りつめた表現で書く。一語一語が欠くべからざる役割を負っていて、一語を削れば必要な情報がそれだけ不足になる――そういうふうに書くのが理科系の仕事の文書の書き方の理想だ。」
数学の証明こそが理想的な理科系の仕事の文書のようだ。

評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年6月28日日曜日

澤田昭夫「論文の書き方」

「研究する、論文を書くというしごとの第一の課題は、なにについて研究し、書くかというトピック選びです。」

この本は「論文のレトリック」よりも上位概念での論文の書き方を説明している。トピック選び、資料収集や整理、論文書き、そして本の読み方や、話し方まで網羅している。歴史学という分野に特化している気もするが、自然科学でも十分に使えることを書いてあるので、学問や研究を行う人は全員読むべきである。
この本の対象は研究を行う人間だけではない。会社員も資料や報告書を膨大に書かなくてはならない。これらでも、読む対象は誰か、何を伝えるべきか、何のために調べて報告するのかは考えながら書かなくてはいけない。
何故早くこのような本を読まなかったかと嘆きたくなる。

追記:
「研究の過程で、どうしてもさらに知識を広め、深める必要があるのに気がつくでしょう。自分の能力の限界というのは、ある程度相対的なものです。何について知識が足りないか、常に自問しながら、隣接学問分野や新しい分野の学習を体系的に進めていけば、能力の限界はある程度まで克服されるはずです。」
こういう言葉に救われる。そして、救われたら自分で進まなきゃ。

評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年6月27日土曜日

金谷治訳注「孫子」

「勝利の軍は開戦前にまず勝利を得てそれから戦争をしようとするが、敗軍はまず戦争を始めてからあとで勝利を求めるものである。」

いかにして戦争に勝つかという兵法の書であるが、実際は好戦的ではない。そして、武器と武器でわあわあと戦う戦争だけが対象ではなく、もっと多くの戦い方について述べている。
この本は、漢文、読み下し文、口語文で成り立っているが、私は口語文しか理解できなかった。自分の教養の無さが悔しかった。

追記:
戦争が長びいて国家に利益があるというのは、あったためしがないのだ。
ブッシュさんへ送ります。

評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年6月26日金曜日

日経新聞2009年6月26日夕刊1面

アイセックOBでIEA事務局長の田中伸男さんがアイセックについて述べている。

2009年6月20日土曜日

エコポイント事務局の謎

書面でのエコポイントの申請には、エコポイント事務局に書類などを送る必要がある。(http://eco-points.jp/EP/apply/index.html私には、インターネットによる申請に場合に書類を送る必要があるのか判別できなかった。インターネットによる申請なのに申請書のみインターネット上で記入できるというようにしか読めない。「インターネットによる申請」という見出しはいかがなものか?)この事務局の住所は不明であり、送付先は「〒109-5085 郵便事業株式会社 新東京支店留グリーン家電エコポイント申請係」である。一体、住所を隠さなければならない理由はなんであろうか?あくまで参考だが、外務省や内閣府が所管している財団法人は所在地を公開している。
http://www.mofa.go.jp/Mofaj/annai/shocho/koeki/ichiran3.html
http://www8.cao.go.jp/koueki-co/co-list.html

事務局に電話をしてみた。(ナビダイヤルで通話料は10円/26秒である。)

Q, 何故、局留めなのですか?
A, 確認してまいります。
(しばらくしてから、)国からそのように指定されているからです。
Q, 働いている人は誰なのですか?
A, エコポイント事務局のものが働いております。
Q, どこの省庁出身とかはないのですか?
A, そのようなことはお答えしかねます。
Q, 監督官庁はどこですか?
A, そのようなことはお答えしかねます。

全然、わからないぞ、エコポイント事務局!

追記:(2009年6月28日)
ここに書いてあった。
http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=11188
このページある一般社団法人環境パートナーシップ会議が何をしているのかはHPにある情報だけではよくわからない。

付記:
エコポイントは環境のためだと思われているが、実際は「地球温暖化防止、経済の活性化、地上デジタル放送対応のテレビの普及を目的」としている。(http://www.env.go.jp/policy/ep_kaden/faq.htmlより。このサイトは環境省にあるが、最下部には3つの省が並んでいる。)エコポイント制度は環境省、経済産業省、総務省の3つが手を組んで行っており、3つの目的は各省の利益になるようになっている。

2009年6月17日水曜日

レイチェル・カーソン、青樹簗一訳「沈黙の春」

「このかがやかしい勝利がおさめられたのは、予防と治療という二つのことがあったからだ。」

世界中で農薬などの化学薬品が使われたせいで、生物は死に絶えてしまい、「沈黙の春」を迎えてしまった。いかに人間が化学薬品を使ったせいで生物が死滅しているのかが述べられている。環境破壊に関して考えているならば、まず読むべき本である。
上述した引用は伝染病の広がりをいかにして抑えたのかという過去の事例を紹介している部分である。現在、発癌物質は人間が撒いた薬品により人間に入ってきている。ならば、それらを撒かなければいい。病気を治すのは華やかであるが、病気にならないようにする方がはるかに安上がりである。
こんな簡単なことであるが、Jerome Ravetzが2006年に発表したThe No-nonsense Guide to Scienceの中では「予防はSHEE科学である」、つまり女性がやるものであり、今まで男性が行ってきた科学とは異なっていると書いてある。現在の学問世界の価値判断基準をつくってきた男性が権力を持っている限りは、女性の科学をやるのは、研究費がもらえないという経済的な観点から、大変である。
昔からあんまり変わっていない。でも変わった方がいい。

評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年6月16日火曜日

大阪大学コミュニケーションデザイン・センター「Communication-Design 1」

「CSCDとはいかなる組織であり、いかなる使命をもっているのか、何ができる可能性があるのかを問い直すことを通して、大学が発行する紀要ではない新しいタイプの書物を作ることに落ち着きました。」

とにかく不思議な本である。
これは大学の紀要である。一般に大学の紀要と言えば、一般の人は読まずに、その世界の専門家のみが読むものである。つまり、読む人だけ読む。なので、あまり装丁にこだわることはない。
一方、この冊子は表紙が和紙でできている。表紙に題名は書いてあるのだが、ぱっと見では気付かない。他に文字はない。つまり、この本のようなものが置いてあっても、一体何なのかはわからない。しかし、触りたいと思ってしまい、開きたいと思ってしまう。
内容も今までの学問という点からすれば一貫性はない。デザイン論からサイエンスショップまで書かれた紀要は世界初ではないだろうか。しかもカラーページが多くて、読まなくとも見ているだけで楽しい。
では、本当に一貫性はないのか?デザインはコミュニケーションになりえるのかという問いもあり、またサイエンスショップは市民と大学のコミュニケーション手段とも言える。
今までの学問に対する考え方がいかに自分の中で硬直していたのか、そしてこれから学問はどのような方向に発展しうるのかを私は考え始めた。読者に新しい観点を提供してくれるのがよい本とするならば、間違いなくこの本はよい本である。

評価:☆☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年6月15日月曜日

最相葉月「絶対音感」

「絶対音感とは特定の音の高さを認識し、音名というラベルを貼ることのできる能力であり、音楽創造を支える絶対の音感ではない。だが、それがさまざまな能力と複雑に絡み合い、優れた表現として賞賛された結果、初めて才能を支える一つの道具として浮かび上がるのではないだろうか。」

絶対音感とは何か、その疑問を科学的、歴史的に追い、そして絶対音感を持った人間、持たなかった人間がどのような人生を送っているのかを調べた本。音楽や絶対音感、そして感覚というものをいかにして科学がとらえようとしているのかを紹介している。また、日本に絶対音感の教育制度がどのように持ち込まれ発展し、現在の日本人音楽家に現れた弊害まで示している。音楽家からは、絶対音感についてどのように感じているかを聞き出している。
文庫本で400ページ以上である。この取材量はすごい。文章が上手いので、その量でも一気に読める。

追記:
私は昔から疑問があった。ラの音が440ヘルツと言われているが、実数上で一つだけ実数を選んだとき、有理数を選ぶ確率はルベーグ積分で0である。つまり、440ヘルツぴったりの音を出すことは不可能である。440ヘルツの多少の誤差を入れているならば絶対ではないと感じていた。
この本によれば、人間の感覚はそこまで鋭敏ではなく、500ヘルツくらいの周波数域では聴き分けられる音の差は1ヘルツ弱だそうだ。長年の疑問が解消した。

評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年6月14日日曜日

科学と裁判 足利事件から

菅家さんが逮捕された翌日の朝日新聞1991年12月3日朝刊14版には「スゴ腕DNA鑑定」という見出しがある。「100万人から1人絞り込む能力」という中見出しがついているが、本文には「血液鑑定と併用すれば、百万人の中から一人を絞り込むことも可能とされ」と書いてある。
当時のDNA鑑定技術を、技術的には、絶賛しているようである。なお、当時からプライバシーの観点では問題視はされていたようだ。
さて、朝日新聞2009年6月5日朝刊14版では当時のDNA鑑定に関して「制度の低さが問題視されていた」と書いている。過去の新聞を読む限り、そのような問題を朝日新聞が気付いていたようには思えない。つまり、多くの人間が当時のDNA鑑定を信じきっていたのではないか。

今回疑問に思ったのは、新しい科学的知見や技術が生まれるたびに、裁判をやり直すのだろうか、ということだ。例えば、公害問題で新しい技術が生まれるたびに、資料を分析していくのだろうか?地層を調べる技術が発達するたびに、原子力発電所の設置の妥当性を調べるのだろうか?
分析の精度は上がっていくだろう。では、一体、どの段階で決定するのだろうか?

追記:
朝日新聞1991年12月2日朝刊14版によれば、菅家利和容疑者(注:当時の表記)は
・「パチンコにも行かず、午後三時以降ずっと家にいた」が熱心なパチンコマニア
・自宅には女性の人形や女児を扱ったビデオを所有
・今年三月に幼稚園を解雇されて以来無職
・かなり以前に結婚歴があるが、一ヶ月ほどで離婚
だそうだ。
朝日新聞1991年12月2日夕刊4版によれば
・一昨年まで保育園で送迎バスの運転手をしていたが、無断欠勤を理由に解雇
・幼稚園の運転手になったが、警察の内偵捜査を知った園により解雇
だそうだ。

2009年6月13日土曜日

澤田昭夫「論文のレトリック」

「「何をいおうとしているのか解らない、どういう問題があってそれをどう解決したのか解らない」論文こそ「だめな論文」であります。よい論文とはその逆で「何をいおうとしているのかが一目瞭然、主問・副問が何であるかがはっきりしており、それに対して十分確証ある答えを与えている論文、つまり統一、連関、展開において優れた、明快な論文」です。」

論文の書くためには、何のために論文を書くのか、つまり問いが重要である。その問いの見つけ方から、論文の構造、そして論文を書くための読書の仕方やノートのとり方まで丁寧に書いてある。
明快な論文を書くようにと言っているだけあって、とてもわかりやすい。
文章を書く際にはまずここに書いてあることを復習してから書くのがよい。ずっと手元においておきたい本である。

評価:☆☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年6月6日土曜日

キェルケゴール著、斎藤信治訳「死に至る病」

「しかし我々は冒険さえすれば容易に失うことのないもの(よしほかにいかに多くのものを失おうとも)をかえって冒険しないために怖ろしいほどやすやすと失うことがありうるのである、――すなわち自己自身を。」

死に至る病とは絶望のことである。しかし、絶望では死ぬことはない。死ぬに死ねないことが絶望者の真実の姿なのである。
絶望により精神が腐っていってしまう。それも気付かぬ間に。

などと言っておきながら、全然理解できませんでした。第拾六話のサブタイトルに使われていたから興味を持って読んだけど、全然分からん。でも、面白いとは思った。分からないけど面白いと思えたのが、幸せだなと思った。
評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年6月5日金曜日

シェイクスピア、斎藤勇訳「リア王」

「「これが最悪」などと言える間は、まだ実際のどん底なのではない。」

娘の甘言に惑わされたため、荒野で暴風雨にあわなくてはいけなくなった可哀想なリア王。ケント伯と道化との道中が痛々しい。
何で、コーディリアはあんな最期を迎えてしまったのだ。シェークスピアは因果応報をよく書いているのに、コーディリアに関してはまったく当てはまらず。これで当時の観客の満足を得られたのかな。

評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年6月4日木曜日

シェイクスピア、三神勲訳「マクベス」

「人間なんてうろちょろする影法師、あわれな役者だ、
 自分の出番だけ舞台に出て、どたばたやるが、
 それっきり消えてしまう。人生はうす馬鹿のたわごとさ、
 むやみに泣いたりわめくだけで
 まるっきり無意味だ。」

マクベスを唆すマクベス夫人の方が悪者のように見える。
夫人の勧め通り凶行を重ねていくマクベスはやめようがなかったのかな。

評価:☆☆
(1-5で基本は2)


2009年6月3日水曜日

経済活動>ニセ科学?

日本経済新聞2009年5月31日エコノ探偵団のテーマはコラーゲン。
コラーゲンを「食べてきれいに」という見出しがある。日本ハムの研究者の話として「食べた後に体内でどう作用するのかは分かっていませんが、肌の水分量を保てる実験結果が出ています」と書いてある。

実際の話、コラーゲンはプラセボである。つまり、美容効果は認められていない。体内でコラーゲンは多く作られているが、体外から摂取した場合にはそのコラーゲンを活用できず排出している。
昔電機業界がマイナスイオンを仕掛けたように、コラーゲンを誰かが売り出そうとしているに過ぎない。しかし、日経はこのことを報じない。あくまで日経は経済活動を補助する立場にいるという姿勢は崩さないようだ。そんなに経済活動とは重要なものなのであろうか?

2009年6月1日月曜日

小飼弾「小飼弾のアルファギークに逢ってきた」

その世界(まつもとゆきひろをMatzと言うような人たちの世界)では小飼弾は有名なようだが、私は一切知らなかった。その小飼弾と世界中のコンピュータエンジニアとの対談集である。
一流のコンピュータ技術者になれば、どこの世界でも渡っていけるのだろう。一介の技術者として世界を変えるような製品をつくりたいなと思った。

評価:☆☆
(1-5で基本は2)

2009年5月31日日曜日

増田四郎「ヨーロッパとは何か」

「西ヨーロッパでは社会生活をおおむね法律関係においてとらえ、法的なルールをうちたて、それを慣習法として守りぬこうとする意識が一貫して歴史を流れている。それはとりもなおさず一方的な支配に対する抵抗の姿勢であり、時いたれば、それを拡大して、国制をも左右するほどの力となりうる団体意識の源泉なのである。」

明治時代にヨーロッパの思想や制度を日本は取り込んだのだが、その精神基盤は取り込まなかったため、上滑りであったというのは現代でもよく聞かれることである。例えば、クローン人間を禁止するか否かの問題を突き詰めていくと、日本の場合は最終的に頼るべき基準がなくなってしまう。一方、ヨーロッパでは、キリスト教が最終判断材料となり、ローマ教皇の意見が大きく決定に影響する。

そもそも日本人には「公」の発想がヨーロッパについて貧弱、もしくは存在しないと言われる。「公=官、私=民」と日本人は考えがちだが、自分達で自治意識を持ってみんなが使う場所を整理していくのは公の発想であり、わざわざ政府に頼る必要のないことである。

では、何故ヨーロッパは日本には存在しない発想を持っているのか。その疑問を解消するのがこの本である。

評価:☆☆
(1-5で基本は2)

2009年5月30日土曜日

橘木俊詔「格差社会 何が問題なのか」

「格差問題の是非を論じるときは、経済学が合理的かつ科学的に分析して、実態を判断する際の客観的な資料を提供できます。しかし、人々の価値判断にも依存するところも少なくありません。」

筆者の結論としては、高齢者と若者の貧困は増加している、とのこと。

私は興味を持ったのは上記の経済学へのとらえ方である。これはまさに、現代の科学者の仕事である。現在はトランス・サイエンスの時代である。つまり、小林傳司のいう「科学によって問うことはできるが、科学によって答えることのできな問題群からなる領域」である。(「小林傳司「トランス・サイエンスの時代」」)その際、「科学者は社会や政治と切り離され、自らが生み出した客観的で中立的な知識を、知識として意思決定の世界、つまり政治に差し出」さなくてはいけない。
そもそも経済学者は貧困と分配問題を解決したいという欲求で研究を行っていることが多いそうである。(宇沢弘文「経済学の考え方」)そして、本文の最後では筆者は「私が示したような実態や考察を参考に、日本にとってふさわしい選択肢を、国民に選んでもらいたいと私は希望します。」といっている。あくまで、学者は自分で調べた結果を提出するのみであり、決定は国民が行うものであると考えている。
この流れの中では、国民一人ひとりがどのような社会をつくっていきたいのかを考えていかなくてはいけないが、それは今までやってこなかったという観点で言えば、なかなか大変なことである。

追記:
若者が企業を目指して、大企業に人が集まらなくなると、日本経済の中核部分の企業に「翳り」が見られて、また、開業医が増えると大病院の人材が育たないと日本の医療水準が低下するという懸念を持っているようだが、本当かなあ?

評価:☆☆
(1-5で基本は2)

2009年5月29日金曜日

チェーホフ著、中村白葉訳「かもめ」

「一度創造の喜びを経験した人にとつては、もうそれ以外の楽しみはある筈ないつて。」

この言葉を実感できますか?

私はまだわからないし、今後経験してみたいが自分がそこまで達せられるかがわからない。
研究はとても面白いと言う人は世の中にはたくさんいるし、私の周りにも結構いる。そういう人にこの質問をしたら、同意してくれるのかな。
評価:☆☆
(1-5で基本は2)

2009年5月28日木曜日

勝間和代「断る力」

「コモディティはコスト、スペシャリティは投資」

何でもかんでも仕事を引き受けていると、便利屋になってしまう。「何でも出来る=何にも出来ない」というつながりはあると思う。それよりは、自分がどうなりたいかを考えて、スペシャリストを目指した方が将来は安全である。多くの場合において、コモディティは在籍している会社などある一定の組織においては重要であるが、他の組織から見た場合、そのスキルはあまり有効ではない。一年ごとに履歴書を書いて何ができるかを意識する、という考え方があるそうで、それは自分の能力を客観的に見る上で非常に価値があると思う。
断ることを怖がる人には、筆者は「断ることのデメリットは何か」を説く。そんなものは意外とない。もちろん、ただ断るだけではなく、代替案を提示することが望ましい。(まあ、毎回出来たら苦労しないけどさ。)
表紙の、勝間さんの厳しい表情が印象的な本。

評価:☆☆
(1-5で基本は2)

2009年5月24日日曜日

西成活裕「渋滞学」

「最も言いたかったのが分野横断的な人材の必要性である。」

もともとは「爆笑問題のニッポンの教養」で観たのが初めてだった。渋滞学というとこの人のやっていることは制限されてしまうだろう。現実問題に対して数学を適用してモデルをつくり、いかにして解決するかがこの人の関心であろう。そのため、本書で解説されているのは、いわゆる渋滞と言われる車の渋滞や、避難経路を考慮する人の渋滞、そして森林火災やインターネット上の渋滞まで様々である。しかし、行っていることはすべて適切なモデルを作成することである。

現実の問題解決には多くの知識が必要とされる。現在の大学教育では、理学と工学の差が大きくなってきているので、その両方を持った人間が必要であると著者は説いている。

理学は基礎追究をした方がいいか、という問題はあるだろうが、現実問題を解決したいという学生の意志を達成できるような制度つくりは必要であろう。

評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年5月22日金曜日

ショウペンハウエル著、斎藤忍随訳「読書について 他二篇」

「読書とは他人にものを考えてもらうことである。」

ショウペンハウエルによれば、読書ばかりしていてはダメで、思索をしなくてはいけない。「自分の思索で獲得した真理であれば、その価値は書中の真理の百倍にもまさる。」そうである。

「良書を読むための条件は、悪書を読まぬこと」というのも興味深い。私は昔から、流行書の類はほとんど読まない。むしろ、名著であると長らく言われているものを読む傾向にある。これは他人が選別をした後に自分がいいところをとっていっているとも思えるが、最近出版されたから、という理由以外によって残っている本はやはり読んでいて心を耕してくれるように感じる。

「他二篇」のうちの一篇「著作と文体」には、文章を書く際には「もっとも心すべきは、自分に備わっている以上の精神を示そうとして、見えすいた努力をしないこと」とある。わかっていないことは書かない、とても当たり前に聞こえるが、世の中にはそれがわかっていない人がなかなか多い。ショウペンハウエルはわかっていることしか書いていないのであろう、この本はとてもわかりやすい。

評価:☆☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年4月26日日曜日

「科学技術と社会の相互作用」第2回シンポジウム

「科学技術と社会の相互作用」第2回シンポジウムに参加した。
こういうのに参加するたびに同窓会気分になるのはいいことなのか、よくないことなのか。当然のごとく2次会まで参加して帰宅。

今日良くなかったこと:
ポットの使い方がわからずに、白いテーブルカバーにコーヒーをどぼどぼこぼしてしまったこと。


まずは平成20年度採択プロジェクトからの発表。

「地域主導型科学者コミュニティの創生」というプロジェクトの発表が面白かった。地域社会で問題となっていることを科学で解決しようとしている。それらの問題は過疎化などの社会問題もあるだろうが、今回は環境に特化して行っているそうだ。何故なら、環境はその問題に特化して解決する必要が特にあること、そしてこちらの理由の方が大事なようだが、地域の住民がローカルノレッジを持ち寄って主体的に解決しようとするそうだ。科学は誰のものかという私の疑問の回答の一つとして非常に興味深い。

「海域環境再生(里海創生)社会システムの構築」の自然観も面白かった。里山があるように自然は人間が少し手を入れてやるほうがいいそうだ。その海に対応する概念としての「里海」である。上海での国際会議でも「sato-umi」という言葉で宣言に盛り込まれていた。欧米の自然観では核に保護地域があり、そのまわりにバッファーがあり、そのまわりに人間の活動地域があるが、Sato-umiの中に海文化と「鎮守の海」があると発表者は考えている。もちろん、どちらがいいというわけではないが、新しい自然観を提示することで、新しい科学や新しい環境への考え方をつくっていくのが面白い。


ここからはパネルディスカッションである。

「システムが倫理をつくるなら個人に責任を負わせるのは無理。」
確かにそうだが、一体システムは誰がつくっているのだろうと疑問になった。何となくでできていくのか?

「法廷で裁判官の科学観はひどいもの。昭和50年10月24日のハンバール事件判決には「一点の疑義も許されない自然科学的証明」という言葉がある。少しでも自然科学をやっていればこのような科学観を持つわけがない。」
このような状態だから、科学者はすべて知っている、科学に不確実性はない、という誤った科学観を持っている裁判官が、弁護士や検察が持ってきた「科学的証拠」を判定すれば、市民が「一般通念」だと思う判断とは異なることは当然である。この登壇者に以前、フランスでは対立する科学的証拠は両論併記するが、日本ではどちらかのみが正しいと判定すると教えてもらった。
「こんな状態なのに、日本学術会議の科学者の行動規範で「科学をコミュニティに還元せよ」と謳われている。」
これなら、裁判所に行きたがる科学者がいるわけはない。迫害されるところに行きたがる人はいない。
法廷では予防原則という概念はごく一部の裁判官しか持ち合わせていないそうだ。

全般的に気になったのは、今回のシンポジウムは「科学技術と社会の相互作用」であり、発表原稿のタイトルには「科学技術」という言葉が入っているのに、発表中はほとんど「科学」の話で「技術」が出てこないことである。「研究者」という言葉も大学や公的機関の研究者をイメージして話されており、企業の中央研究所の基礎科学の研究者や、技術者はスコープから外れているようだ。私が考える理由は2つある。1つ目は現在の科学技術社会論の研究者が科学史、科学哲学出身者が多いため、自分の得意分野からものを眺めているという理由。もう1つは、技術は社会に出て消費者によって「役に立つ」「必要性」をチェックされるが、科学は自分の好奇心を満たすもの、だから社会とどのように付き合わせればいいのかという問題を立てやすいことがある。このとき話題になるのは、科学の中でも特に「それって何の役に立つの?」と言われるものが多い。工学に近い科学はあまり具体例にならない。もちろん、2つ目に関しては技術者倫理は工学系の人が行っているからわざわざ自分達がやらなくてもいいという気持ちもあるだろう。
飲み会の席で「何で技術の話をしないのですか?」と尋ねたら「あんまり技術の話に関わりたくない」という非常に明快な回答をもらって、私は納得した。

2009年3月21日土曜日

国の科学技術・イノベーション戦略と学協会の役割

ワークショップに行った。
国の科学技術・イノベーション戦略と学協会の役割~日本型研究・政策コミュニティの形成に向けて~

科学技術政策をどのように行うのか、科学者、社会学者、シンクタンク、ベンチャーのコンサルタント、企業人、理系大学院生、文系大学院生、国の研究機関など様々な人間の立場から議論した。
私の班で出た最大の問題点は、政策研究のシンクタンクが少ない(ない?)ことである。これは財団法人未来工学研究所の人が何度も嘆いていた。少ない理由は簡単に言えば、お金の問題である。「企業がCSRとして政策研究シンクタンクに寄付する」という私の意見に強く賛同していた。ただ、実は、NPOが数多く存在し寄付文化が根付いているアメリカと比べても、日本企業の寄付はアメリカと遜色がない。日本は個人の寄付が少ないのである。額にして100倍の差であるが、日本とアメリカのGDP比は2倍程度である。
私が企業人として感じる問題点は、私がどこで発言しようとも企業人として見られることである。私が勤務先の企業を離れて論じていても、周りからは利益誘導にとられてしまう。すると、目立たないように審議会や委員会に参加することになり、むしろ政策決定過程の不透明さを生んでしまう。
科学技術政策には経団連が関与する。しかし、中小企業の意見は参考程度に聞くそうだ。パブリックコメント同様、役人の言い訳に使われてしまう。
科学技術政策に関して政治家に頼るのは難しいと思う。川田龍平参議院議員が薬害に取り組んでいるように科学技術政策を考えている議員は少ない。理由は簡単、票がとれないからである。もちろん、関心を寄せていない有権者にも原因がある。議員自体の科学リテラシーが低いのも問題だ。大学の学部だけで科学リテラシーをはかるのは浅薄であるのはわかっているが、日本の議員、閣僚の理系比率は先進諸国と比べると低い。

2009年3月20日金曜日

科学技術は誰のものか?

学生時代所属していたNPOの集まりに行った。

テーマは貧困や開発問題だった。しかし、まわりの人と話していると、誰もがそれに興味のあるというわけでもなく、地域の知を結集して社会を良くしたい、教育から社会を変えたい、ということを話している人もいた。
自分が何に興味があるのかを考えてみた。私も社会をよくしたいという気持ちはあり、その手法として科学技術を選んでいた。
最近、科学技術は誰のものなのかということを考えている。国立大学法人の運営は税金で行われているから、そこでの研究成果は市民全体のものであるという考え方がある。しかし、この論理では海外の大学の成果を用いることはタダ乗りである。また、研究成果を雑誌に載せて発表した場合、その雑誌を買えない人は情報にアクセスできない。これは出版社が編集というプロセスを経て質の担保および箔付けを行っていることに対しお金を払っているという考え方ができる。情報にお金を払うべきというのは以下のル・モンド社の記事を読むと非常に納得がいく。
http://www.diplo.jp/articles07/0701.html
特許は科学技術の進歩にどれだけ発展するのか?道をつくったことは非常に重大な仕事である。その道を通るのに、どれだけの通行料を取るべきか?誰でも通れるようにした方が発展するのか、それとも金銭的インセンティブを与える方ががんばるのか?数学界では成果やアルゴリズムに対し特許をとってはいけないという風潮がある。
情報の共有が企業間の争いのために進まないことがある。病院の電子カルテ作成事業に数社が入っているが、そのデータベースの形式はまちまちなので突合せが出来ない。病院を移動したとき、カルテが簡単に移動してくれるのが望ましいが、うまくいっていない。(同席したNTTデータに「会社の利益と人の命のどっちが大事なんだ?」と文句を言っておいたが、「そんなことを言われても」というしごくまっとうな返答をされた。)
世の為人の為、そんな技術を開発したいと思う。

2009年3月15日日曜日

アニクリ

そうそう、アニメってこんなにも面白いものなんだよ!
この中では前田真宏が一番好きです。
http://www.nhk.or.jp/ani-kuri/

2009年2月7日土曜日

中国経済事情

同期の中国人が上海の近くにマンションを持っている。2年後にモノレールが開通したら、値上がりするはずだからその後売るそうだ。
日本人の同期と共に、そんなことはない、表に出ていない情報がないならこれから上がることはない、だから早く売った方がいい、と主張した。
「いやいや、もっと上がる」と中国人は譲らない。

一回バブルを経験しないと意味がわからないのかな。

2009年2月1日日曜日

社会主義は可能か?

「一九二〇年に、ミーゼス(Ludwig Edler von Mises)が、このような経済計画(筆者注:さまざまな生産手段を、どのように使って、なにをどれだけ生産し、その果実をどのよに分配するかという計画)を合理的に作成するためには、何百万という方程式を解かなければならなくなって、実際に計算することは不可能であるということを主張した。」(宇沢弘文「経済学の考え方」P47)

数理工学出身の先輩に現在計算機でどれくらいの連立方程式が解けるのか質問した。多分、このような連立方程式は行列でかいた場合は0である成分が多いはずだから擬似逆行列を使えば大きなものでも解けるのはないかとの答えだった。正則行列なら逆行列さえ求まれば解は簡単に求まるが、階数がそんなにきれいにいくとも思えない。
ミーゼスは方程式と述べているだけであり、それが線形なのか非線形なのかはわからない。ただ、初期の経済学では線形方程式を扱っているし、所詮人間が想像できるのは線形だから経済をモデル化する際には線形で行っていたとの予想は出来る。

科学の進歩により、昔予言されていたものが発見や証明されたことが多くある。さて、コンピュータの進歩により、社会主義は可能になったのだろうか?そして、コンピュータが進歩すれば、社会主義は可能になるのだろうか?経済学においては、ヒックスの「週」のように、瞬時に計算するという前提をおいたものもある。こんなことは不可能だからということで実際にはできないという結論になった考え方は、技術の進歩により復活するのだろうか?

追記:

線形計画法の人と話した。彼の話を聞くに、方程式ではなく、連立一次不等式を解くようだ。一般に、制約式は一次不等式で書けて、目的関数だけはどうなるのかわからないそう。ミーゼス以前が不等式か方程式かは調べきなかったが、彼以後のワルラスの一般均衡理論では需要関数や供給関数は一次同次式で与えられて、制約式は一次不等式である。無差別曲線を与える式は、「経済学の考え方」を読んでいるだけでは、不明である。ミーゼスは本当に不等式ではなく、方程式で考えていたかはわからない。
人は「合理的」に行動しないため、そこまで意識した経済学があるそうだが、人の心と行動は心理学ですら分からない部分が多い。それにより、初期値が変わり結果は大きく変わってしまうのは複雑系の議論から考えれば自然だ。
ものごとを精密にすればするほど正確に把握することの難しさもさることながら、大枠さえ当てはめることも難しくなってしまったようだ。

(経済学と社会の関係を自然科学の歩んだ道や、科学技術の進歩と絡めて眺めることに私は非常に関心があることに最近気付いたが、そのまとめは後日記す。)

2009年1月26日月曜日

政治的トップの選び方

同僚のフランス人に「日本の首相は実力で選ばれるからいいね。大統領だと人気で選ばれるから。」と言われた。
「いえいえ、日本の首相は自民党の経営陣に言うことを聞きそうな人という観点で選ばれるから、実力で選ばれているわけではないのだよ。」と私は説明した。
自分で言っていて情けなくなった。

2009年1月25日日曜日

派遣会社の責任

派遣切りが話題になっている。マスコミの報道では、派遣先の企業が雇用を打ち切ったということになっている。
しかし、派遣の打ち切りは派遣元と派遣先の同意が必要である。つまり、派遣元も契約打ち切りに同意している。このことについて報道しているようには思えない。

2009年1月22日木曜日

2009年1月21日の新聞

オバマが
「就任した」と書いた新聞:朝日新聞、毎日新聞
「就任する」と書いた新聞:日経新聞、読売新聞、東京新聞
「就任」と書いた新聞:産経新聞
(いずれも東京最終版)

就任は20日正午(日本時間21日午前2時)である。降版協定では午前1時15分以降の事件は載せてはいけない。「就任した」と書いた朝日新聞、毎日新聞は一体どのような意図だったのだろうか?
新聞はネットやテレビに速報性が劣るというのは事実である。この事実を朝日、毎日は受け入れきれていない。

2009年1月4日日曜日

2008年予想

朝日新聞、日経新聞に書かれた2008年の予想がどれだけ当たったのかを検証する。

まず、朝日新聞2008年1月5日から。

岩沢誠一郎 野村證券チーフストラテジスト
日経平均株価 13500~18000円
対ドル円相場 昨年末より円高傾向の推移
「サブプライム問題の解決への道筋は見えてきた。企業業績は市場の見方ほど悪くない。急激な円高が進めば利下げもあり得る」

大外れ。「急激な円高が進めば」というが、進むかどうかを予想するのが仕事なのでは?


加藤出 東短リサーチチーフエコノミスト
日経平均株価 13800~17200円
対ドル円相場 102~115円
「春先に米経済への悲観論がピークになっても長くは続かず、年末には株価は上昇。一時的には円高が進んでも積極的な円買い材料はない」

確かに12月は株価は上昇したが、予想株価にはちっとも追いつかず。


西広市 日興コーディアル証券エクイティ部部長
日経平均株価 14000~18500円
対ドル円相場 105~120円
「米経済は年前半は減速するが、後半持ち直す。米金融機関の資本増強策がポイント。日本株には政府系ファンドなど新たな買い手も」

持ち直していません。


平川昇二 UBS証券チーフストラテジスト
日経平均株価 14000~20000円
対ドル円相場 105~120円
「海外投資家から見て、日本株は様々な投資指標で割安な水準となった。欧米で利下げが進んでいることも株価押し上げの要因になる」

14000円を超えたのは、7月以降はありません。


増井英彦 日本総合研究所チーフエコノミスト
日経平均株価 14000~16000円
対ドル円相場 100~110円
「米金融機関の追加損失が表面化し、米景気が一段と減速する可能性も。国内では建設不況が深刻で、賃金や新卒採用への波及を懸念。」

賃金と新卒採用は話題になった。でも、相場予想は外れ。


藤戸則弘 三菱UFJ証券投資情報部長
日経平均株価 14000~18000円
対ドル円相場 105~118円
「サブプライム問題は1~3月が最悪期。米金融機関の損失の全容が見えれば年後半にかけて株価は回復へ。海外投資家は政局も注視」

最後は予想でも何でもない。損失の全容は見えたのか?見えたとしても年後半以降は株価低迷の一途。


三宅一弘 大和証券チーフストラテジスト
日経平均株価 14000~19500円
対ドル円相場 105~115円
サブプライム問題は当初の予想より深刻化しているが、1~3月期には市場への織り込みが進み、株価は底入れする可能性がある」

可能性はいつでもあるから、そんな予想をしても何の価値も無い。なお、1~3月期は局所的には底入れである。


まとめると、ちっとも当たっていない。


日経新聞2008年1月5日朝刊から。

国井保博 第一生命保険株式部国内株式グループ次長
「年末に一万八〇〇〇円程度まで上昇しそうだ」
この人は「為替が○○円ならば」という予想を多くしているが、そこが大事なのでは?

キャシー・松井 ゴールドマン・サックス証券チーフ日本株ストラテジスト
「上値は年末に一万七〇〇〇円程度とみている」
この人のせいでゴールドマン・サックスは上場以来初の赤字であろうか?

山野井徹 大和証券投資信託委託チーフ・ファンドマネージャー
「今年前半に日経平均株価で一万八五〇〇円を上回る場面があると予想する。」
「年後半に世界経済の減速を警戒する場面があれば株価の下押しがありそうだ」
2つ目は当たり前である。


日経新聞2008年1月3日では「経営者・有識者」が株価と景気について予想している。日本の有名企業の社長でも株価はちっとも当たっていない。社長らしく多少強めで予想しているのだろうが、それでも大外れ。有望5銘柄は1位がコマツ、2位がトヨタだが、今年2009年予想ではトヨタは1人だけ。地球環境なんて1年前からそんなに変わっていないのに、金融がガタガタになっただけで有望ではなくなってしまった。そんなことはないだろう。


世界的な株価下落は2007年7月末から始まり、その原因がサブプライムローンだとされている。2008年9月にリーマンショックがあったにしろ、景気悪化の火種は2008年予想をした段階では知られていた。それでも大外れをするアナリストと呼ばれるみなさん。製造業でこんな予想違いをして事件が起こったら、企業存続が危うい。
予想屋とは気楽な商売なのかしらん?