2008年10月27日月曜日

飲み会遅刻

研究所同期の飲み会があった。2次会の途中から来た人が何故遅くなったのかを説明していた。
「実験をしていたんだけど、ミスっちゃって、上司に「だからお前はダメなんだ」と言われて、残業して実験していたよ。もう大変だったよ。」

こんなところで残業自慢をされても…、とみんな思った。

2008年10月14日火曜日

大学の研究室のような

「研究所は大学の研究室のようなな雰囲気なのか?」

同期入社からとこう問われても説明できない。以前述べたように、数学科は他の研究室と違っているように感じる。他と違うと言っても、理学と工学で違っているとも思う。だから、「~よう」とは何を指しているのかわからない。

質問するほうにも問題があるように感じる。「~のような」という質問は「~」の部分に同様のイメージを持っていないといけない。つまり、質問した際には自分のイメージは他人も持っていることを前提しているが、自分のイメージはそんなにも普遍的なものなのだろうか。今回の質問のように「大学の研究室」は(理系ならば)どこも一緒であるという前提は、少数の存在を知らないからことからきているように感じる。知らないのはしょうがないが、違うかもしれないくらいの気持ちはもってほしい。

村上陽一郎先生のように、私は文明がどんどん嫌いになってきているようだ。その原因は、自分のいる世界は中心で正しいというおこごましい考え方が好きになれないからだ。

2008年10月10日金曜日

経済学は科学の跡を辿るのか?

(時事問題から考えを拾ってくるくせにその時事問題が遅いのだよね。まあ、考えは古くならないということで。)

米下院で金融安定化法案が否決されたときにニュースや新聞の専門家はすべて法案は通すべきであり、下院議員は自分の選挙のために決定を間違えたと解説していた。選挙のためというのを民衆の気持ちを代弁するためだと解釈すると、民衆という非専門家は金融安定化法案に反対しているということになる。日本がどのようにバブルから立ち直ったかという歴史的経緯を見れば、今回の決定は妥当なのだろう。

専門家と非専門家で意見が対立していることが興味深かった。民衆は経済・金融のトップクラスの人間のミスを同業者がフォローコメントを入れている姿に憤りも持ったかもしれない。自然科学では科学者や技術者が何かを言っても信じてもらえないことが多くある。自然科学でも、科学者が製薬会社から研究費をもらっていれば薬の安全性は会社よりになる、技術者は自分の会社の製品を売るための結果を発表している、国の委員会は役人の意見の裏付けをするための人たちで構成されている、などと思われたら、いくらしっかりやったと説明したところで信じてもらえない。人が信じるにはその内容だけでなく、その人自身及びその人の環境も問われるようだが、その態度が妥当なのかは議論の余地がある。「科学には国境はないが、科学者には祖国がある」(パスツール)のだ。科学者は属人性を省くようにしている。実際、科学の論文で「I(私)」は基本的に使わない。もちろん、科学的な結果を信じないのは、科学者に対して失礼であるという考えも納得できる。
また、一般論として、経済の専門家の意見は必ず正しいものなのだろうか?科学者が言っていることが正しいとは限らない。人々のローカルノレッジの方が正しいことはよくある。そもそも、科学技術社会論の立場では科学の一つのローカルノレッジなので(藤垣裕子編「科学技術社会論の技法」)、そこに優劣はつかない。レヴィ=ストロースは当時のヨーロッパの西洋中心主義を「悲しき熱帯」において非難した。(「文明人」は自分達の文化を他の人間に伝えることを好む。「文明」とはcivilization、つまりcivilizeする、つまり野蛮な人間をcivil(市民)に仕立て上げることである。これはすなわち、他文化の破壊をもたらす。)エコノミストは理論的に株価の推移を予測するが、一体何人がこの現在の株価を予期していたのだろうか?
今回の金融危機は高度な金融工学の結果であると見ることもできる。商品が高度すぎて中身が見えなくなった。昔はラジオを分解できたけど、今は携帯の中を見ても何も仕組みがわからないというのと似ている。
経済学が科学のようになろうとするときに、手法だけではなく社会的な位置付けも科学と同じような道を通らなくてはいけないかもしれない。今回の民衆による専門家不信は、高度になりすぎて手の届かなくなった経済学を民衆が嫌った結果なのかもしれない。扱えないものは扱ってはいけないのは基本原則だ。

2008年10月1日水曜日

松下さんへ

社名変更って一般人はそんなに興味がないと思います。