2009年9月20日日曜日

夏目漱石「三四郎」

「この激烈な活動そのものがおりもなおさず現実世界だとすると、自分が今日までの生活は現実世界にごうも接触していないことになる。洞が峠で昼寝をしたと同然である。それではきょうかぎり昼寝をやめて、活動の割り前が払えるかというと、それは困難である。自分は今活動の中心に立っている。けれども自分はただ自分の左右前後に起こる活動を見なければならない地位に置きかえられたというまでで、学生としての生活は以前と変るわけはない。世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わることはできない。自分の世界と現実の世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。はなはだ不安である。」

小説とはこれほどまでに面白いものだったのか。

熊本から出てきた三四郎の東大での学生生活を描写した小説である。とりわけ大きな事件が起きるわけでもなく、三四郎はまわりの学生や教員や女性を観察し、影響を受け、いろいろなところに出かけるが、自分から大きな行動を起こしているようには見えない。
これは青春小説だ。私は今青春真っ只中にいて(自分で思うのは勝手である)、一つ一つの事件が私だったらどうだろうという想像を誘う。


追記:
「「日本より頭の中のほうが広いでしょう。」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ。」
この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。」

この言葉は、場所が変われば自分も自然と変わる、と勘違いしているようにしか見えないのは私だけか?漱石はもちろんわかっていてこの言葉を入れたのだろう。(ただし、根拠なし。)

評価:☆☆☆☆
(1-5で基本は2)


私は昔の版(人からもらったもの)で読んでいるので知らなかったが、現在の表紙はわたせせいぞうなのか。

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