とある研究会に行ったときに、ある社会問題の話をしている人がいた。
このような問題がたくさんあるのです、ということを熱弁しているのはわかるが、論点が今ひとつはっきりしない。問題点が明確になっていないのに、それに対して解決策を述べ始めた(ようだった)。しかも、それらの解決策は粒度もタイムスパンもバラバラだった。結局、これでは何も解決しないような気がした。(そもそも問題点を私は把握できていないので、あくまで気がしただけである。)
この学者の言っていることは立派である。しかし、それは本当に現在困っている人を助けることにつながっているのだろうか?学者だからこそ近視眼的ではなく、遠くを見据えている、と反論もあるだろう。しかし、その遠くを見据えた時の解決策の費用対効果が高いとは思えなかったし、評価基準を設けているようにも見えないからやってみたいと夢を語っているようにしか見えない。問題意識を多くの人が共有すれば解決に向かう、と言われても、共有後の行動が不明確である。そもそもこの発表のもとになった論文は、地方公立大学の紀要に提出されたものであり、一体誰が読むのか疑問である。つまり、問題共有という目標に対する、行動としては一貫性を欠いている。
では、学者は解決策を提示し、行動する必要性があるのか、という問いがある。学者の本分は問題点を明確にすることであり、それ以上は領分から外れていると主張する学者もいる。私は、社会科学者は社会問題を解決したがっていると思っていたが、そうでもないらしい。私は自分の持ち場から外れないという態度は否定しない。私は、目標と行動の一貫性が欲しいのだ。
私はまだ力がない。論文や発表を否定しても、私には代替案の提示はできない。だから、今、修行をしているのだ。
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