2009年9月26日土曜日

女性衆議院議員の数

09年8月30日に行われた総選挙では、当選した女性候補は過去最多の54人であった。全議席の11.3%である。(朝日新聞2009年9月19日14版より。)
一方、全立候補者数1374人のうち、女性の候補者は229人であり(wikipedia「第45回衆議院議員総選挙」より)、全立候補者のうち女性の占める割合は16.7%である。
統計局のホームページによれば、平成21年9月1日時点での20歳以上の男女比は48.2:51.8である。
有権者は女性の方が多く、立候補者も女性の方が多く、しかし当選者は女性の方が少ない。このような状況で、女性の国会議員は少ないからクオータ制を導入するようにと主張するのは難しい。

参考:
男女共同参画白書
http://www.gender.go.jp/whitepaper/h14/1_1.html

2009年9月22日火曜日

「一度民主党に任してみるか」

政治家は一般企業の感覚がないと批判されることがある。政府の財政を企業の財政だと考えれば、毎年赤字で経営して、足りない分を債権で補足するのはおかしいらしい。
「一度民主党に任してみるか」という言葉をいろいろなところで聞いた。しかし、これこそ一般企業ではおかしい言葉である。投票権によって国会議員を選んだのは国民である。企業では経営陣を選ぶことが出来るのは株主である。つまり、政府と企業の例えでいえば、株主である国民は日本という企業の経営陣を選んだだから、そのチェックを行うことは責務である。
民主党になって最大の成果は国民の政治参加が形式的なものから実質的なものに変わったことである。国民の意識が変わらないならば、政権だけが交代して、社会は何にも変わらない。

2009年9月21日月曜日

竹内靖雄「経済倫理学のすすめ」

「われわれは倫理問題を、その成立の根は感情問題にあることを認めながら、できるだけそれを感情のレベルでは処理せず、可能な限り「勘定」の問題として取り扱う、という立場をとりたい。」

薬害は非常に大きな社会問題である。治験という言葉はあるが、簡単に言えば人体実験である。しかし、新しい薬を社会に出していくためには、この人体実験をやめさせることはできない。
もちろん製薬会社は最新の注意を払っているが、動物実験での結果を意図的に取捨選択は行っているという話もある。治験段階でのデータの提出は明確に決められているが、それ以前はきちんとしていないと主張する人もある。
製薬会社も薬害はなくしたい。しかし、多くの人間が使えば副作用が出る人もいるのはいたしかたなく、そのために薬を禁止すれば救われるはずの多くの命が失われるかもしれない。多少薬害が出たとしても、ある程度は補償金などを払うことで解決してしまったほうが経営判断として妥当かもしれない。
人間感情はすべてを金銭に置き換えることは不可能であるとの反論もあるだろう。私は最初から不可能であるとは断じず、できるところまでやってみて、少しでも論点、費用対効果が明確になった状態で議論すべきだと思う。

評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年9月20日日曜日

夏目漱石「三四郎」

「この激烈な活動そのものがおりもなおさず現実世界だとすると、自分が今日までの生活は現実世界にごうも接触していないことになる。洞が峠で昼寝をしたと同然である。それではきょうかぎり昼寝をやめて、活動の割り前が払えるかというと、それは困難である。自分は今活動の中心に立っている。けれども自分はただ自分の左右前後に起こる活動を見なければならない地位に置きかえられたというまでで、学生としての生活は以前と変るわけはない。世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わることはできない。自分の世界と現実の世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。はなはだ不安である。」

小説とはこれほどまでに面白いものだったのか。

熊本から出てきた三四郎の東大での学生生活を描写した小説である。とりわけ大きな事件が起きるわけでもなく、三四郎はまわりの学生や教員や女性を観察し、影響を受け、いろいろなところに出かけるが、自分から大きな行動を起こしているようには見えない。
これは青春小説だ。私は今青春真っ只中にいて(自分で思うのは勝手である)、一つ一つの事件が私だったらどうだろうという想像を誘う。


追記:
「「日本より頭の中のほうが広いでしょう。」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ。」
この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。」

この言葉は、場所が変われば自分も自然と変わる、と勘違いしているようにしか見えないのは私だけか?漱石はもちろんわかっていてこの言葉を入れたのだろう。(ただし、根拠なし。)

評価:☆☆☆☆
(1-5で基本は2)


私は昔の版(人からもらったもの)で読んでいるので知らなかったが、現在の表紙はわたせせいぞうなのか。

2009年9月19日土曜日

学者と社会問題とその解決策

とある研究会に行ったときに、ある社会問題の話をしている人がいた。
このような問題がたくさんあるのです、ということを熱弁しているのはわかるが、論点が今ひとつはっきりしない。問題点が明確になっていないのに、それに対して解決策を述べ始めた(ようだった)。しかも、それらの解決策は粒度もタイムスパンもバラバラだった。結局、これでは何も解決しないような気がした。(そもそも問題点を私は把握できていないので、あくまで気がしただけである。)
この学者の言っていることは立派である。しかし、それは本当に現在困っている人を助けることにつながっているのだろうか?学者だからこそ近視眼的ではなく、遠くを見据えている、と反論もあるだろう。しかし、その遠くを見据えた時の解決策の費用対効果が高いとは思えなかったし、評価基準を設けているようにも見えないからやってみたいと夢を語っているようにしか見えない。問題意識を多くの人が共有すれば解決に向かう、と言われても、共有後の行動が不明確である。そもそもこの発表のもとになった論文は、地方公立大学の紀要に提出されたものであり、一体誰が読むのか疑問である。つまり、問題共有という目標に対する、行動としては一貫性を欠いている。
では、学者は解決策を提示し、行動する必要性があるのか、という問いがある。学者の本分は問題点を明確にすることであり、それ以上は領分から外れていると主張する学者もいる。私は、社会科学者は社会問題を解決したがっていると思っていたが、そうでもないらしい。私は自分の持ち場から外れないという態度は否定しない。私は、目標と行動の一貫性が欲しいのだ。
私はまだ力がない。論文や発表を否定しても、私には代替案の提示はできない。だから、今、修行をしているのだ。

2009年9月5日土曜日

最近職場で学んだこと

・いろいろやってみると、意外と賛同者は見つかる。
こんな企画を持ち込んでいいのかと不安になりながらだったが、賛同してくれる人、否定的でもとても納得できるコメントをしてくれる人、アドバイスをしてくれる人、いろいろな人が集まった。

・自分の目指すべき社会を持っていないと人は説得できない。
企画のよさを発表しても、そこに一本自分なりの筋が通っていないと、本当の賛同は得られない。私は技術者として、どんな社会を目指しているのか、早くしっかりきちっと考えなければならない。

・時間はいつでも足りない。
やりたいことがたくさんある。