2009年5月31日日曜日

増田四郎「ヨーロッパとは何か」

「西ヨーロッパでは社会生活をおおむね法律関係においてとらえ、法的なルールをうちたて、それを慣習法として守りぬこうとする意識が一貫して歴史を流れている。それはとりもなおさず一方的な支配に対する抵抗の姿勢であり、時いたれば、それを拡大して、国制をも左右するほどの力となりうる団体意識の源泉なのである。」

明治時代にヨーロッパの思想や制度を日本は取り込んだのだが、その精神基盤は取り込まなかったため、上滑りであったというのは現代でもよく聞かれることである。例えば、クローン人間を禁止するか否かの問題を突き詰めていくと、日本の場合は最終的に頼るべき基準がなくなってしまう。一方、ヨーロッパでは、キリスト教が最終判断材料となり、ローマ教皇の意見が大きく決定に影響する。

そもそも日本人には「公」の発想がヨーロッパについて貧弱、もしくは存在しないと言われる。「公=官、私=民」と日本人は考えがちだが、自分達で自治意識を持ってみんなが使う場所を整理していくのは公の発想であり、わざわざ政府に頼る必要のないことである。

では、何故ヨーロッパは日本には存在しない発想を持っているのか。その疑問を解消するのがこの本である。

評価:☆☆
(1-5で基本は2)

2009年5月30日土曜日

橘木俊詔「格差社会 何が問題なのか」

「格差問題の是非を論じるときは、経済学が合理的かつ科学的に分析して、実態を判断する際の客観的な資料を提供できます。しかし、人々の価値判断にも依存するところも少なくありません。」

筆者の結論としては、高齢者と若者の貧困は増加している、とのこと。

私は興味を持ったのは上記の経済学へのとらえ方である。これはまさに、現代の科学者の仕事である。現在はトランス・サイエンスの時代である。つまり、小林傳司のいう「科学によって問うことはできるが、科学によって答えることのできな問題群からなる領域」である。(「小林傳司「トランス・サイエンスの時代」」)その際、「科学者は社会や政治と切り離され、自らが生み出した客観的で中立的な知識を、知識として意思決定の世界、つまり政治に差し出」さなくてはいけない。
そもそも経済学者は貧困と分配問題を解決したいという欲求で研究を行っていることが多いそうである。(宇沢弘文「経済学の考え方」)そして、本文の最後では筆者は「私が示したような実態や考察を参考に、日本にとってふさわしい選択肢を、国民に選んでもらいたいと私は希望します。」といっている。あくまで、学者は自分で調べた結果を提出するのみであり、決定は国民が行うものであると考えている。
この流れの中では、国民一人ひとりがどのような社会をつくっていきたいのかを考えていかなくてはいけないが、それは今までやってこなかったという観点で言えば、なかなか大変なことである。

追記:
若者が企業を目指して、大企業に人が集まらなくなると、日本経済の中核部分の企業に「翳り」が見られて、また、開業医が増えると大病院の人材が育たないと日本の医療水準が低下するという懸念を持っているようだが、本当かなあ?

評価:☆☆
(1-5で基本は2)

2009年5月29日金曜日

チェーホフ著、中村白葉訳「かもめ」

「一度創造の喜びを経験した人にとつては、もうそれ以外の楽しみはある筈ないつて。」

この言葉を実感できますか?

私はまだわからないし、今後経験してみたいが自分がそこまで達せられるかがわからない。
研究はとても面白いと言う人は世の中にはたくさんいるし、私の周りにも結構いる。そういう人にこの質問をしたら、同意してくれるのかな。
評価:☆☆
(1-5で基本は2)

2009年5月28日木曜日

勝間和代「断る力」

「コモディティはコスト、スペシャリティは投資」

何でもかんでも仕事を引き受けていると、便利屋になってしまう。「何でも出来る=何にも出来ない」というつながりはあると思う。それよりは、自分がどうなりたいかを考えて、スペシャリストを目指した方が将来は安全である。多くの場合において、コモディティは在籍している会社などある一定の組織においては重要であるが、他の組織から見た場合、そのスキルはあまり有効ではない。一年ごとに履歴書を書いて何ができるかを意識する、という考え方があるそうで、それは自分の能力を客観的に見る上で非常に価値があると思う。
断ることを怖がる人には、筆者は「断ることのデメリットは何か」を説く。そんなものは意外とない。もちろん、ただ断るだけではなく、代替案を提示することが望ましい。(まあ、毎回出来たら苦労しないけどさ。)
表紙の、勝間さんの厳しい表情が印象的な本。

評価:☆☆
(1-5で基本は2)

2009年5月24日日曜日

西成活裕「渋滞学」

「最も言いたかったのが分野横断的な人材の必要性である。」

もともとは「爆笑問題のニッポンの教養」で観たのが初めてだった。渋滞学というとこの人のやっていることは制限されてしまうだろう。現実問題に対して数学を適用してモデルをつくり、いかにして解決するかがこの人の関心であろう。そのため、本書で解説されているのは、いわゆる渋滞と言われる車の渋滞や、避難経路を考慮する人の渋滞、そして森林火災やインターネット上の渋滞まで様々である。しかし、行っていることはすべて適切なモデルを作成することである。

現実の問題解決には多くの知識が必要とされる。現在の大学教育では、理学と工学の差が大きくなってきているので、その両方を持った人間が必要であると著者は説いている。

理学は基礎追究をした方がいいか、という問題はあるだろうが、現実問題を解決したいという学生の意志を達成できるような制度つくりは必要であろう。

評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年5月22日金曜日

ショウペンハウエル著、斎藤忍随訳「読書について 他二篇」

「読書とは他人にものを考えてもらうことである。」

ショウペンハウエルによれば、読書ばかりしていてはダメで、思索をしなくてはいけない。「自分の思索で獲得した真理であれば、その価値は書中の真理の百倍にもまさる。」そうである。

「良書を読むための条件は、悪書を読まぬこと」というのも興味深い。私は昔から、流行書の類はほとんど読まない。むしろ、名著であると長らく言われているものを読む傾向にある。これは他人が選別をした後に自分がいいところをとっていっているとも思えるが、最近出版されたから、という理由以外によって残っている本はやはり読んでいて心を耕してくれるように感じる。

「他二篇」のうちの一篇「著作と文体」には、文章を書く際には「もっとも心すべきは、自分に備わっている以上の精神を示そうとして、見えすいた努力をしないこと」とある。わかっていないことは書かない、とても当たり前に聞こえるが、世の中にはそれがわかっていない人がなかなか多い。ショウペンハウエルはわかっていることしか書いていないのであろう、この本はとてもわかりやすい。

評価:☆☆☆☆
(1-5で基本は2)