2008年12月30日火曜日

Yes, we can!

オバマのはワンフレーズでわかりやすい演説だと評する人がいるけど、小泉のワンフレーズポリティクスは大事な部分を隠蔽しているから気を付けようということになったのではなかったっけ?

2008年12月29日月曜日

松下さんへ2

マイナスイオンなんてありません。
http://ctlg.panasonic.jp/product/info.do?pg=04&hb=EH5206

大阪大学菊池誠先生がおっしゃる通り、ニセ科学である。科学技術の会社なのだから、もうちょっと科学的な考え方を持っていただきたい。

こういうことで金儲けをして恥ずかしくないのかしら?

Googleツールバーで「マイナスイオン」と打ち込むと、予測検索(というのか?)で松下製品が出てくる。そんなに売り込んでいるのか。

↓こんなひどい会社もありました。
マイナスイオンの専門サイト「イオントレーディング」


なお、菊池先生に対する反論がありますが、このページの最後を見れば明らかな通り、マイナスイオンで金儲けをしようとしている方がわめいているだけです。

2008年12月23日火曜日

業績悪化の中で

製造業は業績悪化のため、大幅に雇用を削減している。その行為に対して「企業は競争力確保のために行っている」という解説をNHKスペシャルで聞いた。それでは一体何のために競争力を欲しているのだろう?企業イメージの観点からすれば広告費を最低限にして後々雇用を守ったという広告をする方がいいだろう。地球のために、環境のために、などと言っているくせに雇用は削減するようだ。

ただ、私が調べているのが少ないだけかもしれないが、企業経営者の口から「競争力のため」という発言は無い。もちろん、言ったら非難されるから言わないだけだろうという意見もあるだろう。しかし、誰だって会社のために一生懸命働いている人を辞めさせたくないという気持ちはある。さも気軽に雇用を削減しているように報道している姿勢には違和感を覚える。
では、マスコミに聞きたい、一体どうすればよいのだ?

企業が株主のために仕事をするようになったアメリカでは製造業は衰退し、短期的な利益を出せる金融が発達し、爆弾を世界に撒き散らしながら沈んでいった。イギリスも金融で規制緩和を行ったが、反面、製造業の中核である自動車産業はインドのタタに買われたジャガーくらいしか思いつかない。金融立国を計画したアイスランドは、行動を反省した。

駒澤大学が運用に失敗して154億円の損失を出して、理事長が解任された。(駒澤大学HPより。)新聞の解説を読むと、2~3%程度の運用を心掛ければ大学の資産運用としては十分であり、そのくらいならできるものだそうだ。仏教大学なのに、欲に溺れてしまったのだろうか?

このような状況だと金融はすべてダメで、やはり地道にものづくりをしている方が真っ当な金の稼ぎ方だという意見が出てくる。そうではなく、何事も程々が重要なのだろう。

いくらまで儲けることが出来るのか?ある程度でやめなくてはいけないのに、欲と好奇心が止まらなくてついには戻れなくなってしまう。科学者の研究倫理にも近いと感じる。
また、経済活動と科学者の研究活動に共通点を見つけた。

このようなことを考えると、いつも中学校の国語で読んだ森鴎外「高瀬舟」が頭に浮かんでくる。

2008年12月21日日曜日

AVIVA

電車でアビバの広告を観た。若い女性が会社の制服から私服のブラウスに変わっているさまによって、キャリアアップを表現していた。
エクセルのIF関数を使えるだけでそんなことになるとは思えない。

などと記事を書いてから調べていたら、ブラック常連で誰もまともな企業とは思っていないことがわかりました。

2008年12月13日土曜日

原子力発電推進漫画

主人公が似ている他の男の子と入れ替わって、という話だ。途中で無人島に行っておじさんと話しているうちに、「原子力は大事だね」という結論になる。原子力推進の意義を子供のうちから刷り込ませるために日本原子力文化振興財団はこんなことまでやっているのか。
ここの収支計算書を見た。素人からすると大赤字なのですが、どうなのですか???

2008年11月21日金曜日

裁判員制度は平成21年5月21日から

素人に判断できるのかという懸念があるが、素人なりの判断が裁判官の判断より劣っているとは一概に言えないのかもしれない。
例えば科学技術の話だと、原子力発電所で技術的評価はできないにしろ、それを設置するかどうかは議論できる。それは専門家が考える視点とは違う視点を提供してくれる。
あまりに高度になりすぎて世の中に浸透してきたものには、市民はその権利に関与したくなる。ただ、裁判員制度の場合は市民からの欲求で始まったのかは不明だ。裁判員制度のHPを読む限りでは、上から権利を与えた形である。なお、宮崎哲弥が調べている限りでは、裁判員制度を始めようと言った人間を知っている人間はいないそうである。
司法が身近になる利点があるらしいが、身近になって誰が何を得するのであろうか?

2008年10月27日月曜日

飲み会遅刻

研究所同期の飲み会があった。2次会の途中から来た人が何故遅くなったのかを説明していた。
「実験をしていたんだけど、ミスっちゃって、上司に「だからお前はダメなんだ」と言われて、残業して実験していたよ。もう大変だったよ。」

こんなところで残業自慢をされても…、とみんな思った。

2008年10月14日火曜日

大学の研究室のような

「研究所は大学の研究室のようなな雰囲気なのか?」

同期入社からとこう問われても説明できない。以前述べたように、数学科は他の研究室と違っているように感じる。他と違うと言っても、理学と工学で違っているとも思う。だから、「~よう」とは何を指しているのかわからない。

質問するほうにも問題があるように感じる。「~のような」という質問は「~」の部分に同様のイメージを持っていないといけない。つまり、質問した際には自分のイメージは他人も持っていることを前提しているが、自分のイメージはそんなにも普遍的なものなのだろうか。今回の質問のように「大学の研究室」は(理系ならば)どこも一緒であるという前提は、少数の存在を知らないからことからきているように感じる。知らないのはしょうがないが、違うかもしれないくらいの気持ちはもってほしい。

村上陽一郎先生のように、私は文明がどんどん嫌いになってきているようだ。その原因は、自分のいる世界は中心で正しいというおこごましい考え方が好きになれないからだ。

2008年10月10日金曜日

経済学は科学の跡を辿るのか?

(時事問題から考えを拾ってくるくせにその時事問題が遅いのだよね。まあ、考えは古くならないということで。)

米下院で金融安定化法案が否決されたときにニュースや新聞の専門家はすべて法案は通すべきであり、下院議員は自分の選挙のために決定を間違えたと解説していた。選挙のためというのを民衆の気持ちを代弁するためだと解釈すると、民衆という非専門家は金融安定化法案に反対しているということになる。日本がどのようにバブルから立ち直ったかという歴史的経緯を見れば、今回の決定は妥当なのだろう。

専門家と非専門家で意見が対立していることが興味深かった。民衆は経済・金融のトップクラスの人間のミスを同業者がフォローコメントを入れている姿に憤りも持ったかもしれない。自然科学では科学者や技術者が何かを言っても信じてもらえないことが多くある。自然科学でも、科学者が製薬会社から研究費をもらっていれば薬の安全性は会社よりになる、技術者は自分の会社の製品を売るための結果を発表している、国の委員会は役人の意見の裏付けをするための人たちで構成されている、などと思われたら、いくらしっかりやったと説明したところで信じてもらえない。人が信じるにはその内容だけでなく、その人自身及びその人の環境も問われるようだが、その態度が妥当なのかは議論の余地がある。「科学には国境はないが、科学者には祖国がある」(パスツール)のだ。科学者は属人性を省くようにしている。実際、科学の論文で「I(私)」は基本的に使わない。もちろん、科学的な結果を信じないのは、科学者に対して失礼であるという考えも納得できる。
また、一般論として、経済の専門家の意見は必ず正しいものなのだろうか?科学者が言っていることが正しいとは限らない。人々のローカルノレッジの方が正しいことはよくある。そもそも、科学技術社会論の立場では科学の一つのローカルノレッジなので(藤垣裕子編「科学技術社会論の技法」)、そこに優劣はつかない。レヴィ=ストロースは当時のヨーロッパの西洋中心主義を「悲しき熱帯」において非難した。(「文明人」は自分達の文化を他の人間に伝えることを好む。「文明」とはcivilization、つまりcivilizeする、つまり野蛮な人間をcivil(市民)に仕立て上げることである。これはすなわち、他文化の破壊をもたらす。)エコノミストは理論的に株価の推移を予測するが、一体何人がこの現在の株価を予期していたのだろうか?
今回の金融危機は高度な金融工学の結果であると見ることもできる。商品が高度すぎて中身が見えなくなった。昔はラジオを分解できたけど、今は携帯の中を見ても何も仕組みがわからないというのと似ている。
経済学が科学のようになろうとするときに、手法だけではなく社会的な位置付けも科学と同じような道を通らなくてはいけないかもしれない。今回の民衆による専門家不信は、高度になりすぎて手の届かなくなった経済学を民衆が嫌った結果なのかもしれない。扱えないものは扱ってはいけないのは基本原則だ。

2008年10月1日水曜日

松下さんへ

社名変更って一般人はそんなに興味がないと思います。

2008年9月30日火曜日

野依さんの研究室

野依良治氏を批判するのではなく、数学科といかに違っているかを述べるだけである。

日経2008年9月の私の履歴書は野依良治氏だった。9月19日は野依氏の研究室の様子を紹介している。この文章を読んでいると、いかに数学科が他の研究室と多くが違っているかがわかる。逆に、自然科学系の他の学科から見れば、少し違うという程度なのだろう。

「常に複数の主題を用意し、それぞれを助教授や助手に担当してもらい、学生や博士研究員が実験を分担する体制をとった。」
「若い人たちの実験結果をもとに、良い論文を書くのは私の責任だ。」
研究室を主宰する教授は自分では研究しないようだ。この書き方ではそのようにしか読み取れない。助教授ですら自分で研究テーマを設定できないようである。数学科は学生が何をやればいいのかわからないときは先生が論文やテーマを与えるが、博士以上なら自分で興味のある方向に考えていく。講座制が緩やか、もっと言えばないようなものなので、助手の先生だろうと好き勝手に研究テーマを決めて研究している。
2つ目の引用からは、研究成果とは実際にやったことではなく、そのテーマを設定することが重要であるとの印象を受ける。自分で結果を出したのに、論文を書くのは教授なのだろうか。このようなことを成果の横取りとは言わないのだろうか。

繰り返すが、私の批判は野依氏批判ではなく、このような研究活動は数学科とは大きく異なっており、興味深かったというだけである。

批判というわけではないが、意味がわからなかった部分は以下である。
「研究とは思考と行動、人がするものだ。「コンピューターに考えてもらい、ロボットに働いてもらって答えを出す」現代の研究傾向に違和感をおぼえる。」
野依氏の研究室の形態では、命令通り結果を出すロボットが重宝されるのではないかと思う。そして、現代の研究傾向批判をしているが、そもそもこんな思想でやっているのだろうか?

「私の研究の意義は科学哲学的に、より慎重に評価されるべきだと信じている。」
科学哲学的とはいかなるものか?

野依氏の文章は一ヶ月間通して読むと、こんなすごい人たちが周りにたくさんいたという話が多い。しかし、立派な研究者も他分野からすればすごさはわからない。自分がいる世界はみんな知っていると勘違いしているなら問題だ。そんなことはないだろうけど。

2008年9月10日水曜日

スーツ

友達がスーツを着ていたので、「どっか行くの?」と訊いてしまった。スーツを着ているのが珍しいような職場なんで。

2008年7月24日木曜日

知的ハイソ

学部卒業時にいただいた賞の同窓会に参加。

まわりはすごい人だらけ。30代前半で東大准教授や、博士を一年で修了して国立研究所勤めなどなど。世の中すごい人だらけ、自分のしょぼくれさが際立つ。

仕方ない、がんばらないとな。

2008年7月23日水曜日

自分に引き寄せた理解

数学者が計算機の基礎をつくったからか、コンピュータ言語で書かれたものは数学的に解釈すると私はしっくりきた。逆にプログラミングに大学入学前から親しんできた友人は、大学1年生の数学の講義で、「定義域は引数、整数値関数はint型関数」などと理解していたそうだ。
部署の人に今やっていることを聞いてみると、商集合をとって効率的に計算しているように感じた。項書き換えの話を聞いたときは、話し手も数学に詳しかったので例が毎回群論であった。
自分が理解してきたものを用いて新しいものを理解することはよくある。「○○みたいなものか」というのはこれである。しかし、うまくやらないと新しいものの新しいもの足る所以がわからない。自分に引き寄せた理解は自分の理解できるようにイメージをつくるのはいいが、その後そのイメージを捨てないと新しいものがそのイメージによって歪曲されてしまう。
何も知らない人よりある程度何かしらの基盤ができている人の方が理解が早いと思う。これは懸念点をうまく乗り越える方法を身に付けているからだろう。

2008年7月13日日曜日

原稿料収入

院生時代に先生の紹介で雑誌に寄稿した。最近原稿料が入った。
経歴に書ける。

別の内容だが、紀要にも共著で載る。こちらはその紀要をおくってもらうのが原稿料のようなもの。
こっちも経歴に書ける。

2008年6月28日土曜日

パテントトロール

製造業では特許を取ることが普通であり、従業員は特許を取ることが推奨される。部署に取ってはノルマであったりする。特許は一般的には、技術侵害を防ぎ、かつ自分の技術力を内外に見せることを目的とする。強い特許はすなわち強い技術を意味するので、他企業の開発抑制もしくは他企業との協調を生み出す。
特許は普通、企業が事業を行っている分野で取得するのが普通である。
しかし、パテントトロールという会社がある。悪い意味なので自らそう名乗りはしないが、見方によっては特許権と法律を悪用し利益を上げる会社だ。
パテントトロールは倒産した会社などから特許権を購入する。そして、その特許を用いて他企業に特許侵害を申し立て、特許収入を得ようとする。相手企業としては必死に自らの特許で防御するが、そう上手くはいかない。実際、日本企業は特許の持合を行い、お互いに侵害したと訴えないようにしている。何故かというと、いちいち特許訴訟を行うのは面倒であり、ライバルといっても協調することも多いのでむやみに敵対関係をつくるのがよくないからだ。しかし、パテントトロールは自ら事業はないので特許侵害を言われることがなく、一方的に攻撃できるのだ。
このような企業は合法である。特許はあくまで権利であり、譲渡可能である。維持費も必要なので、集めればいいというものでもない。
しかしながら、私は心境として納得いかない。こいつらが偏狭に金儲けをするせいで技術開発に投入できる資源が少なくなってしまう。
法律と倫理は違う。私の倫理は私の倫理にすぎないが、釈然としない気持ちだけは書いておきたい。

2008年6月16日月曜日

日本の工場


「何故日本に工場があるのか?」という問いに答えられないでいる。
現在コスト削減という名で工場の海外移転が進んでいる。何故わざわざ人件費の高い日本で製造業の中核である工場を建設するのかは、製造業で働く身にとっては一生考えなくてはいけない話題である気がしてならない。
この問いを聞かれたときの最初の私の答えは、技術流失を防ぐ、雇用確保による社会貢献、の二点であった。
一 点目に関しては、工場の自動化により人間が行う作業が機器点検・保守業務になっていく中で、工場における技術とは何かを考えていくと、流失するようなもの はないのではないかと思えてくる。しかも、外国人を雇っていれば技術流失を防げるわけもないし、そもそも日本人だから流失しない、外国人なら流出する、と いう発想自体もおかしい。日本人の方が能力が高いというのも本当なのかはわからない。
二点目の雇用確保は、もっと大きく企業の最大の社会貢献を考えれば外国に工場を造りよい製品を消費者に届けることは何の不思議もない。また、既得権益に寄りかからないように、という私の信条に反する。

何故日本の工場があるのだろうか?日本の製造業復活には必要な存在なのだろうか?


などと私が家で悩んでいても、ねこにとっては白い恋人復活の方が大事らしい。

2008年5月5日月曜日

企業版STS

大学や行政関係者(今回話したのはJSTとJAMSTEC)、そして民間シンクタンク研究員(三菱UFJリサーチ&コンサルティング)にも企業版STSをやった方がいいと言われた。科学技術と社会の関係と言ったところで、研究者はほとんど大学関係者で企業経験がない人が多いと感じる。

「STSは手法なんですかね?それとも対象なんですかね?」
「手法がないから『科学技術社会論の技法』で手法の整理をしようとしたんだけど、まだまだやらないといけないだろうね。」

考えてみるに、学問は手法と対象が合致した時に○○学と言える気がする。それ以前は○○論か。なお、「論」が発展すると「学」になるというのが一般的な見方である。(この点から考えると、玄田有史がいきなり「希望学」を立ち上げたのは例外的な事例だ。)

企業版STSと言ったところで、一体今までのSTSと何が違うのか。この原稿を書いている最中に何度も考えてみたが、かなりの量の文章がボツになってしまった。印象を補強するほどのデータが存在しない。ただ、私には企業人としての視点が登場しそうだ。その視点がどんなものなのかはまだわからないが。企業版STSと経営学の違いもまだまだわからない。模索を続けながら新しいものを生み出して、資本主義社会の担い手である企業が市民社会に手助けをできればよいと思う。
さて、CSRと何が違うのか。う~ん。

2008年4月12日土曜日

関東と関西の笑いの違いについて

関西のお笑いは予定調和である。次にギャグが来るぞ来るぞと観客は思い、そしてそれが来たらどっと笑う。新喜劇の若い俳優は、先輩から早くギャグをつくるように要請される。関東は出来る限り、予想を外した視点からの笑いをよいものとする。だから関東の漫才師はほとんどギャグを持っていない。
関西の漫才は間を大事にする。言っていることは大したことないのに、間だけで笑わせる夢路いとし喜味こいしが代表例だ。関東漫才の代表の爆笑問題は、台本だけ読んでも面白い言葉をしゃべる。
関西人は笑おうとして相手を見ている。逆に関東人は面白いものは面白くて笑うが、つまらないならばつまらないと言う。笑わせてもらうものだと思っているので、自分から盛り上がろうとする気持ちはあまりない。
関西人の会話は、話がつまらなくても他の誰かがそれを面白くしようとする。関東人は、つまらないと切って終わりである。関東人の私は、関西人のこの態度を見習いたいと思っている。
ただ、関西人は自分達の笑いが一番であり、関東の笑いはつまらないと思っているなら、それは大きな勘違いだ。関東人からすれば、予定調和の笑いは身内の馴れ合いに見えることもある。私は関西の笑いがあまり正直面白いと思えない。もちろん面白いものもあるが、大阪のおばちゃんはな、という話をし始めると、勝手にやっていればという気分になる。

2008年2月22日金曜日

ドコモの派遣


大学院まで数学をやって論理には自信がありましたが、私はこの論理がまったく理解できませんでした。

2008年1月16日水曜日

研究の質は下がった

文化人類学の先生の研究室に行ったら、ずっと書類を作成していた。最近は研究資金を得るために外部に対し申請書類が必要である。そしてその書類が膨大になってきて、かつ会議も増えてきたそうだ。「研究したいなあ~」とグチをこぼす先生。研究の時間が減ったのは確かである。
「そんなに書類を作って、研究の質は上がったんですか?」
「いや、下がった。」
昔の本の方が面白いらしい。最近はちょっとしか調べずに書くからやはり内容が浅い。
大学というのは象牙の塔だと揶揄される。ただ、象牙のようにまわりからの影響を受けにくければ、独自の時間感覚を持てて大学でしか生み出せない価値を生み出すことは可能である。大学では世界で極少数しか理解できないが人類の永遠の宝となるような論文が生み出されてほしいと私は思う。大学がもともと持っていた良さ、精神風土のようなものは文化として残してもいいと思う。大学が「社会の常識」という暴力で崩壊していくのを見るのは心苦しい。

2008年1月15日火曜日

お客さん教授

昔は大学院で学位を取得し大学で研究を続けることで助手、講師、助教授、教授と上がっていった。しかし大学教員は研究だけをやっていればいいというわけでもなく、入学試験問題作成や採点、学部学科の運営方針の話し合い及び実行、最近では就職指導も行わなくてはいけない。つまり学内事務は意外と多いのである。
最近は著名な人を大学教員として引き抜くことが多くなった。もちろん招聘されるくらいなので大学の知名度やイメージアップ、新しい教育体系の構築などはちゃんとできる。しかし、大学教員の仕事は研究、教育だけではなく、大学運営もあるのだがそれをしない、もしくはできないと言ってやらない人もいる。
大学の事務は目立たないがなくてはならない。そして履歴書や研究業績として書けるものではない。しかし誰かがやらなくてはならないが、お客さんとして教授職に就いた人はやらない。もともとの教員からは不公平だというグチも聞こえてくる。
確かに資源の最適化を考えると、得意なことで大学に貢献するのは当然のことである。しかし、教授という名を冠している限りは誰もが自分の研究をしたい中でやらなくてはいけないことと思いながら従事している作業を自分は特別だからということでやらないのは妥当とは思えない。

2008年1月12日土曜日

ポスドク問題の必然性

生命科学系の先生と話す。先生は博士課程進学希望者に対して、いつでも勧めるわけではなく、違う道を選ばせることもあるそうだ。先生の自慢は博士課程修了生を他の大学や研究所に出しても、何故こんな奴が博士を持っているのだという文句を言われたことがないことである。つまり、少人数でも質の担保は行っている。
では何故、博士やポスドクがこんなにも増えたか。教員からすると、どれだけ多くの博士を輩出したかが評価の一部となっている。教授になるためだけではない。教授の上には学部長、学長が控えている。確かに多くの学位を出していれば教育活動にも熱心であるように見える。人間の評価が難しいのと同様に、履歴書だけでは研究者の能力を測るのは難しいので、とりあえず学位を与えておいてそれ以降どんな道を歩もうとも(それが自殺や行方不明だとしても)、ドクターを取った後の努力が足りなかった、もしくは極端には運がなかったと言ってしまえば指導教官は言い逃れが出来る。

2008年1月5日土曜日

社会人とは

社会[近思録治法「郷民為社会」の福地源一郎による訳語]
①人間が集まって共同生活を営む際に、人々の関係の総体が一つの輪郭をもって現れる場合の、その集団。諸集団の総和から成る包括的複合体をもいう。自然的に発生したものと、利害・目的などに基づいて人為的に作られたものとがある。家族・村落・ギルド・教会・会社・政党・階級・国家などが主要な形態。
②同類の仲間。「文筆家の―の常識」
③世の中。世間。家庭や学校に対して職業人の社会をいう。

―人
①社会の一員としての個人。
②実社会で活動する人。
(『広辞苑 第四版』より引用)


わからん。社会人とは何なのだ?

以前、会社勤めの友達に大学院での活動について話したら、「仕事ばかりで視野が狭くなっている気がするよ。」と言われる。別の機会に別の友達に論文の価値についての質問を返したら、「日々の仕事だけだと知的探究心という側面では足りないのかもしれない。」と言われる。私は社会に出ると視野が学生よりもはるかに広くなり、日々の仕事から学ぶことは学生の勉強よりもはるかに質が高い(高くなくてはいけない)と思い込んでいたので、驚いた。
どうやら、「会社に入る」と「社会に出る」は同時に発生する出来事だが厳然と区別すべきことのようだ。

私は現在、国立大学法人の職員として給料を貰っているし、スーパーで買い物をして、運賃を払って電車にも乗っているので、社会の中で経済活動は行っていると思う。しかし、学生という身分の為、私は社会人にはならないらしい。
今は自活できるだけの収入はない。会社勤めをすれば殆どの人が自活できるだけの収入は得るはずだ。とすると、社会人とはある程度の所得を持つ人とも考えられる。しかし、学校の先生に対して「社会に出たことがないくせに」という言葉を投げかける時、学校で働いて収入を得ようとも、教員は社会人ではないという前提があるように思える。
大体、「実社会」という言葉もよくわからない。働いていない人間に対し「実社会に出ろ」というならば、働いていないならば実社会に出ていないと言える。実社会なんて「多くの人がいる社会」に過ぎず、つまりは多数決でどれが実社会かを決めているのに過ぎないのではないか。一般にバーチャルの世界は実社会ではないらしいが、何故実社会ではないのかがまったくもって理解できない。