2008年1月16日水曜日

研究の質は下がった

文化人類学の先生の研究室に行ったら、ずっと書類を作成していた。最近は研究資金を得るために外部に対し申請書類が必要である。そしてその書類が膨大になってきて、かつ会議も増えてきたそうだ。「研究したいなあ~」とグチをこぼす先生。研究の時間が減ったのは確かである。
「そんなに書類を作って、研究の質は上がったんですか?」
「いや、下がった。」
昔の本の方が面白いらしい。最近はちょっとしか調べずに書くからやはり内容が浅い。
大学というのは象牙の塔だと揶揄される。ただ、象牙のようにまわりからの影響を受けにくければ、独自の時間感覚を持てて大学でしか生み出せない価値を生み出すことは可能である。大学では世界で極少数しか理解できないが人類の永遠の宝となるような論文が生み出されてほしいと私は思う。大学がもともと持っていた良さ、精神風土のようなものは文化として残してもいいと思う。大学が「社会の常識」という暴力で崩壊していくのを見るのは心苦しい。

2008年1月15日火曜日

お客さん教授

昔は大学院で学位を取得し大学で研究を続けることで助手、講師、助教授、教授と上がっていった。しかし大学教員は研究だけをやっていればいいというわけでもなく、入学試験問題作成や採点、学部学科の運営方針の話し合い及び実行、最近では就職指導も行わなくてはいけない。つまり学内事務は意外と多いのである。
最近は著名な人を大学教員として引き抜くことが多くなった。もちろん招聘されるくらいなので大学の知名度やイメージアップ、新しい教育体系の構築などはちゃんとできる。しかし、大学教員の仕事は研究、教育だけではなく、大学運営もあるのだがそれをしない、もしくはできないと言ってやらない人もいる。
大学の事務は目立たないがなくてはならない。そして履歴書や研究業績として書けるものではない。しかし誰かがやらなくてはならないが、お客さんとして教授職に就いた人はやらない。もともとの教員からは不公平だというグチも聞こえてくる。
確かに資源の最適化を考えると、得意なことで大学に貢献するのは当然のことである。しかし、教授という名を冠している限りは誰もが自分の研究をしたい中でやらなくてはいけないことと思いながら従事している作業を自分は特別だからということでやらないのは妥当とは思えない。

2008年1月12日土曜日

ポスドク問題の必然性

生命科学系の先生と話す。先生は博士課程進学希望者に対して、いつでも勧めるわけではなく、違う道を選ばせることもあるそうだ。先生の自慢は博士課程修了生を他の大学や研究所に出しても、何故こんな奴が博士を持っているのだという文句を言われたことがないことである。つまり、少人数でも質の担保は行っている。
では何故、博士やポスドクがこんなにも増えたか。教員からすると、どれだけ多くの博士を輩出したかが評価の一部となっている。教授になるためだけではない。教授の上には学部長、学長が控えている。確かに多くの学位を出していれば教育活動にも熱心であるように見える。人間の評価が難しいのと同様に、履歴書だけでは研究者の能力を測るのは難しいので、とりあえず学位を与えておいてそれ以降どんな道を歩もうとも(それが自殺や行方不明だとしても)、ドクターを取った後の努力が足りなかった、もしくは極端には運がなかったと言ってしまえば指導教官は言い逃れが出来る。

2008年1月5日土曜日

社会人とは

社会[近思録治法「郷民為社会」の福地源一郎による訳語]
①人間が集まって共同生活を営む際に、人々の関係の総体が一つの輪郭をもって現れる場合の、その集団。諸集団の総和から成る包括的複合体をもいう。自然的に発生したものと、利害・目的などに基づいて人為的に作られたものとがある。家族・村落・ギルド・教会・会社・政党・階級・国家などが主要な形態。
②同類の仲間。「文筆家の―の常識」
③世の中。世間。家庭や学校に対して職業人の社会をいう。

―人
①社会の一員としての個人。
②実社会で活動する人。
(『広辞苑 第四版』より引用)


わからん。社会人とは何なのだ?

以前、会社勤めの友達に大学院での活動について話したら、「仕事ばかりで視野が狭くなっている気がするよ。」と言われる。別の機会に別の友達に論文の価値についての質問を返したら、「日々の仕事だけだと知的探究心という側面では足りないのかもしれない。」と言われる。私は社会に出ると視野が学生よりもはるかに広くなり、日々の仕事から学ぶことは学生の勉強よりもはるかに質が高い(高くなくてはいけない)と思い込んでいたので、驚いた。
どうやら、「会社に入る」と「社会に出る」は同時に発生する出来事だが厳然と区別すべきことのようだ。

私は現在、国立大学法人の職員として給料を貰っているし、スーパーで買い物をして、運賃を払って電車にも乗っているので、社会の中で経済活動は行っていると思う。しかし、学生という身分の為、私は社会人にはならないらしい。
今は自活できるだけの収入はない。会社勤めをすれば殆どの人が自活できるだけの収入は得るはずだ。とすると、社会人とはある程度の所得を持つ人とも考えられる。しかし、学校の先生に対して「社会に出たことがないくせに」という言葉を投げかける時、学校で働いて収入を得ようとも、教員は社会人ではないという前提があるように思える。
大体、「実社会」という言葉もよくわからない。働いていない人間に対し「実社会に出ろ」というならば、働いていないならば実社会に出ていないと言える。実社会なんて「多くの人がいる社会」に過ぎず、つまりは多数決でどれが実社会かを決めているのに過ぎないのではないか。一般にバーチャルの世界は実社会ではないらしいが、何故実社会ではないのかがまったくもって理解できない。