2007年11月13日火曜日

おでん


具は、昆布、大根、ちくわ、ちくわぶ、あつまあげ、がんもどき、はも天、板蒟蒻、牛スジ豆腐あげ、はんぺん、卵、ごぼう巻き、鶏つくね。

金沢、大阪、岡山、鳥取は全員、牛スジは必須と言いますが、東京もんは知りません。つゆは昆布と鰹節で出汁をとり、濃口醤油です。岡山はちくわぶを食べたことがなかったようです。

立冬を越えました。冬支度を始めましょう。

2007年11月9日金曜日

かてきょ9

現在、中学三年生の男の子を教えている。受験前である。
まず、私は「今日は何をやる?」と訊く。生徒が「今日はこのプリントをやってから、教科書を進めて予習をします。」と言う。私は一切カリキュラムを作る気がない。相手が何をしたいかを要求できるようになるのが大事だと考えている。
この会話の後に、母親が入ってくる。「今日はこのプリントのわからない部分をやってから、残った時間で教科書を進めて下さい。」と私に向かって言う。
それは、もう聞いた話だ。
母親からすると、息子には説明する力がないから私が伝えなくてはと思っているようだが、息子はそれくらいのことはできる。
母親には過干渉の不要性、そして息子には親離れの方法を教えなくてはならないと思う。中学生男子は自分一人でで何かをしたくなって、そして意外とできるもんなんだ。母親はそれを見守ってやればいいんだ。

2007年11月7日水曜日

理学と工学の違い

私は理学研究科に属している。昔の科学哲学では「数学は科学か?」という議論をしていたくらいなので、理学部全体の雰囲気について発言を求められても正直なところ答えたくないのだが、一般概念として答える。文系の人がイメージしにくいものとして、理学と工学の違いが挙げられる。両方とも「理系」に属している。

「理学は真理の追究を求めており、そこの中だけで価値が閉じている。工学は製品になることが大事と考えている。」

一般にはこの説明で間違いはないと思う。
ただ、最近はちょっとずつ変わってきている。理学でも化学の人の中には製品になるかどうかを考えている人もいて、工学だっていい製品をつくるためにものごとの原理を調べている人がいる。
つまり、私の説明は過去のイメージを引きづった発言であり、この後の注釈をわかってくれないと現状が伝わらない。しかし、初めて私の話を聞いた人は注釈まで注意がまわらないだろう。
私は現状を知っておきながら、悪いイメージの再生産を行っている。「悪い」というのは、この区分が悪いというのではなく、変わろうとしている人たちを部外者が過去の解釈を続けるためだけに抑えつけるという意味である。
もっと広く言うと、私は理学や理系の中では数学科代表、理系以外の中では数学科もしくは理系代表になってしまうのだから、発言する際は私がイメージをつくってしまう力を持ってしまっているという意識を常に持っていなくてはいけない、ということである。学問形式(ディシプリン)によって思考様式、価値観が形成されるのは否定できない。

2007年11月1日木曜日

3分の1が博士課程に進学する2

ポスドク問題について話し合うイベントに参加。そこで、持論を展開してみる。

「私の周りは3分の1が博士に行きます。しかし、その中で実際に研究者になれるのは1人か、多くて2人でしょう。夢を追い続けるのは勝手です。しかし、いつかは自分の能力を考えて夢を変えなければなりません。私はもっと、進学ではなく社会に出て行く人間が増えていくことを望んでいます。」

4、5人から拍手をもらう。その中の女性が発言。

「私もそう思います。私は学部を出て、一旦社会人になって大学に戻って、これから小学校の教員になります。私は高学歴の人間が初等、中等教育機関に進んでいくのが、博士後のキャリアパスとして有効だと思います。」

イギリスでは、逆に、高学歴の人が産業界ではなく教育界に行ってしまい問題になっているらしい。

私の発言は過激だったため、もちろん反発があった。

「ぼくは工学部です。ぼくの先輩で博士に行ってがんばっている人がいます。そういう人を否定するのだけはやめてください。」

私は否定していない。ただ、がんばっても無理という壁があるのは事実であることは理解しなければならない、と主張しているだけである。

私の横にいた文化人類学の先生がぼそっと、「あいつは甘えとるな」と私につぶやく。がんばりだけで認めてもらえるのには年齢的に限りがあり、それが「学校でがんばってきた人」はわからない傾向がある。

終了後、アート系の人に「君の話、よくわかるよ。」と言ってもらう。アートでも同様の傾向があるようだ。