2009年4月26日日曜日

「科学技術と社会の相互作用」第2回シンポジウム

「科学技術と社会の相互作用」第2回シンポジウムに参加した。
こういうのに参加するたびに同窓会気分になるのはいいことなのか、よくないことなのか。当然のごとく2次会まで参加して帰宅。

今日良くなかったこと:
ポットの使い方がわからずに、白いテーブルカバーにコーヒーをどぼどぼこぼしてしまったこと。


まずは平成20年度採択プロジェクトからの発表。

「地域主導型科学者コミュニティの創生」というプロジェクトの発表が面白かった。地域社会で問題となっていることを科学で解決しようとしている。それらの問題は過疎化などの社会問題もあるだろうが、今回は環境に特化して行っているそうだ。何故なら、環境はその問題に特化して解決する必要が特にあること、そしてこちらの理由の方が大事なようだが、地域の住民がローカルノレッジを持ち寄って主体的に解決しようとするそうだ。科学は誰のものかという私の疑問の回答の一つとして非常に興味深い。

「海域環境再生(里海創生)社会システムの構築」の自然観も面白かった。里山があるように自然は人間が少し手を入れてやるほうがいいそうだ。その海に対応する概念としての「里海」である。上海での国際会議でも「sato-umi」という言葉で宣言に盛り込まれていた。欧米の自然観では核に保護地域があり、そのまわりにバッファーがあり、そのまわりに人間の活動地域があるが、Sato-umiの中に海文化と「鎮守の海」があると発表者は考えている。もちろん、どちらがいいというわけではないが、新しい自然観を提示することで、新しい科学や新しい環境への考え方をつくっていくのが面白い。


ここからはパネルディスカッションである。

「システムが倫理をつくるなら個人に責任を負わせるのは無理。」
確かにそうだが、一体システムは誰がつくっているのだろうと疑問になった。何となくでできていくのか?

「法廷で裁判官の科学観はひどいもの。昭和50年10月24日のハンバール事件判決には「一点の疑義も許されない自然科学的証明」という言葉がある。少しでも自然科学をやっていればこのような科学観を持つわけがない。」
このような状態だから、科学者はすべて知っている、科学に不確実性はない、という誤った科学観を持っている裁判官が、弁護士や検察が持ってきた「科学的証拠」を判定すれば、市民が「一般通念」だと思う判断とは異なることは当然である。この登壇者に以前、フランスでは対立する科学的証拠は両論併記するが、日本ではどちらかのみが正しいと判定すると教えてもらった。
「こんな状態なのに、日本学術会議の科学者の行動規範で「科学をコミュニティに還元せよ」と謳われている。」
これなら、裁判所に行きたがる科学者がいるわけはない。迫害されるところに行きたがる人はいない。
法廷では予防原則という概念はごく一部の裁判官しか持ち合わせていないそうだ。

全般的に気になったのは、今回のシンポジウムは「科学技術と社会の相互作用」であり、発表原稿のタイトルには「科学技術」という言葉が入っているのに、発表中はほとんど「科学」の話で「技術」が出てこないことである。「研究者」という言葉も大学や公的機関の研究者をイメージして話されており、企業の中央研究所の基礎科学の研究者や、技術者はスコープから外れているようだ。私が考える理由は2つある。1つ目は現在の科学技術社会論の研究者が科学史、科学哲学出身者が多いため、自分の得意分野からものを眺めているという理由。もう1つは、技術は社会に出て消費者によって「役に立つ」「必要性」をチェックされるが、科学は自分の好奇心を満たすもの、だから社会とどのように付き合わせればいいのかという問題を立てやすいことがある。このとき話題になるのは、科学の中でも特に「それって何の役に立つの?」と言われるものが多い。工学に近い科学はあまり具体例にならない。もちろん、2つ目に関しては技術者倫理は工学系の人が行っているからわざわざ自分達がやらなくてもいいという気持ちもあるだろう。
飲み会の席で「何で技術の話をしないのですか?」と尋ねたら「あんまり技術の話に関わりたくない」という非常に明快な回答をもらって、私は納得した。