「人間は一体どこまで自己を「外化」するのだろうか。その限界はあり得ないのだろうか。「外化」したところで人間は何を得たのだろうか、そして何を失ったのだろうか。」
機械化の基本的な概念の一つは、機械でできる作業は機械にやらせることである。人間がやっていた作業を機械ができるなら、人間はより機械にはできない作業を行うことが出来る。これは、人間性豊かな暮らしを行う時間が増えることであり、望ましいことである。
機械化が進むことで雇用が失われているという側面は存在している。また、機械ができる作業に対して大きな喜びを感じていた人は、それができなくなり疎外感を得るようになる。
中岡によれば、過去の人間の社会生活の大部分は生産活動が主であり、「技術と労働と人間たちの人生の間に強いリンクが存在した社会」が存在していた。しかし、現在はこれらのリンクが切り離されていった。人々は生活のために労働を行うようになり、生産と消費が分かれる。生産的な人生を行えるのは管理側であり、被管理側は職場でも生活でも消費的生活になってしまう。
技術はいい側面もあるし、悪い側面もある。それでも私が技術者になりたいのは、少なくとも自分のつくる技術は人を幸せにする側面の方が大きいからだと信じているからだ。
例えば原子力発電のように、技術者が作り出した技術はやがて社会問題になり、技術者だけでは技術の妥当性を判断できないものもある。技術者は自分の作り出した技術が社会に出て、そこで悪影響を与えた場合に、責任を取るべきだろうか?技術が社会に出ることを許容した政府が責任を取るべきか?それとも、受容した社会が責任を分担するべきか?私は技術者が新しい技術を出すことを躊躇するようになるから、技術者に責任を負わせるのは酷だと考えるが、技術者は心のどこかに自分の技術の悪の側面を考えておかないといけないとも思う。
技術、これだけ巨大になってきた力を誰が制御すべきか、私は一生考えていく気がする。
評価:☆☆☆☆
(1-5で基本は2)
2009年10月30日金曜日
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