素人に判断できるのかという懸念があるが、素人なりの判断が裁判官の判断より劣っているとは一概に言えないのかもしれない。
例えば科学技術の話だと、原子力発電所で技術的評価はできないにしろ、それを設置するかどうかは議論できる。それは専門家が考える視点とは違う視点を提供してくれる。
あまりに高度になりすぎて世の中に浸透してきたものには、市民はその権利に関与したくなる。ただ、裁判員制度の場合は市民からの欲求で始まったのかは不明だ。裁判員制度のHPを読む限りでは、上から権利を与えた形である。なお、宮崎哲弥が調べている限りでは、裁判員制度を始めようと言った人間を知っている人間はいないそうである。
司法が身近になる利点があるらしいが、身近になって誰が何を得するのであろうか?
2008年11月21日金曜日
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法の判断は、だれもが「そうだ」と思うような常識的なものでなくてはならないのでしょう。ところが、裁判官は一般に、一般社会人とは隔絶されたような人生を歩んでおられる方が多い。だから、常識的でない判例もでる。
返信削除そこで一般常識に従った判断をしてくれる「一般社会人」を裁判の判断に入れるというのが、今回の裁判員制度だろうと思います。であれば、裁判の常識化に貢献するのではないかと、期待しています。
一般常識って難しいですよね。米下院での金融安定化法案否決に対して、専門家と呼ばれる人たちは否決に反対しました。一体どちらが正しいのでしょうか?民衆の感情論であるという一言で切り捨てていいのか?
返信削除最近の科学技術の立場から言うと、情報提供は専門家が行い、判断は市民が行う、というのが流行です。専門家は予想以上に市民が冷静な判断をしてくれるので驚いています。昔は市民には情報を隠して安心を与えるのがよいと思っていたのに。
裁判員制度を始めた理由が後付なので、評価基準も設定しきれないというのが私の予想です。意外と制度自体は上手くいくとは思います。決定や判断に市民が主体的に臨むことで、社会に対するフリーライダーが減ることを望みます。