「さまざまな偶然を受け入れる隙間を、創作活動に編み込む手法は、人を多様に結び付けるための、結節点となりうる可能性に満ちている。」
ある発言がどのような意図を持つのか,それが異なることはよく知られている.その意図をもった発言が発言者から離れたときに,受け手がそれにどのような価値を抱くのかは,発言者の意図とは別に考えるべきものであろう.発言の価値は文脈依存でもあるが,その文脈を発言者とは異なる人間がつくるときがある.しかし,発言者は他人がつくる文脈を意識して発言しているかは,場合により異なる.
ところで,論文は多くの場合,問題,解決手法,評価,結論,からなっている.問題設定をきちんとすることが物事の解決には最も重要なことである.自然科学系の論文では,解決手法には実験手法が述べられることが多いが,社会科学系では実践であることもある.そして,解決手法がどれほど有効であったのかを述べる.
「Communication-Design 2」は様々な文章が寄せられている.多くの文章はこの論文の形式に則っている.
しかし,最後の西川勝氏,宮本博史氏の文章は,この枠組みを外れた異質なものである.まず,問題設定がされていない.なので,解決手法は設定しようがない.宮本博史氏の犬島でのアートイベントに同行した紀行文を述べているだけのように読める.文章は上記の引用で締められるが,この気付きを発見しようとしたわけではなく,偶然発見しただけにしか思えない.これは論文であるとは言いがたい.
この文章が本書以外のところにあるならば,非常に面白い文章というだけで終わりであろう.その文章で得られること以上のことは得られない.
しかし,何故本書に入っているのかを考え始めると,自分の価値観は硬直していたのではないだろうか,という考えに至る.論文形式は知的生産様式として非常に価値のある形であり,これをもとに現在までの知識の構築の一端を担ってきた.しかし,それに外れたものは,知識ではないのだろうか?人類に貢献する知識は一通りでしか生産できないものなのだろうか?西川氏らの文章がここに入っていることで,本書は,知的生産様式に加担し,その権威を独り占めしている大学に対して一種の挑戦状を叩きつけているのではないか,と私は考える様になった.
西川氏の意図はわからない.しかし,これを載せることにした編集部はとてつもない決断をしたように私は感じる.
上記の私の文章を読んで,何故こんなに興奮しているのかわからない人は一般人であろう.そのくらい,私は大学を頂点とした知的生産様式に考えが硬直している.
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(1-5で基本は2)
2010年8月22日日曜日
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