2011年9月22日木曜日

「原発災害をめぐる科学者の社会的責任――科学と科学を超えるもの」


 シンポジウムに行った.
http://shimazono.spinavi.net/?p=247

 学術会議が企画したが,お金がないので,哲学学会がお金を出したらしい.学術会議には清貧の思想があるのだろうか.でも,名誉欲だけでは続かないと思う.
 参加者は300名ほどだろうか.大教室の席は埋まっていた.
 今回の「科学者」は人文・社会系を含む.

 唐木英明さんは「安全の科学」の実施を訴えていた.リスク評価は,科学だけに基づき,科学者・研究者が行う.問題点として不確実性があるが,すべてわからなくともリスク評価をしタイムリーに見直していけばよい.それは「学究の科学」と「安全の科学」の違いである.その評価を受けてリスク管理は政策決定者が行う.
 所感.タイムリーに見直しても,過去の判断によって科学者は間違ったといわれるのだから,科学者は誰もやりたがらないだろう.研究者がリスク評価をやっていたら,人手が足りない.実際はマニュアル化して,政府機関が行なわければ無理だろうが,評価対象が多様化していれば,実際は無理であろう.あまり具体性のない案だと思った.

 小林傳司さんはトランスサイエンスやポストノーマルサイエンス,SHEE Scienceの話.問題の捉え方を紹介していた.専門家だけではなく市民も参加することで,もし失敗したとしても「納得できる失敗」にする.自著「トランスサイエンスの時代」の引用が多かった.
 所感.改めて着眼点の鋭さを感じる.一言一句を聞き逃さないようにする自分を発見する.
 
 押川正毅さんは,「科学的評価」は「正しい」か?,について.疫学調査は対照群の設定が重要である.広島原爆の調査では対照群とされた集団でも実は被曝の影響があったため被害の過小評価がされていたという指摘がある.今回は科学的方法の限界を理解して,史料批判に代表される歴史学的な観点や方法などを導入すべき.
 所感.福島原発問題は,科学的に正しいかどうかではなく,人がいかに幸せを手に入れることが出来るかである.科学的方法,科学的知見に拘泥することなく,大目的に沿った解決策を望む.
 
 鬼頭秀一さんは,科学者の「科学的」「判断」「責任」について.
1. 科学的厳密性に基づいた判断
2. 上位レベルに外挿した上での判断
3. 社会的経済的政治的問題を含む,技術官僚的政策担当者的な立場での判断
 各々で責任の取り方は違う.科学者は2,3での責任を1に逃げ込むような形にして,責任を取らない.安全判断は1ではありえず,2である.
 所感.これも問題の整理をしてくれた発表.立場の違いを超えて,どうやったら協力できるのかを考えていきたい.
 
 島薗進さんは,議論の場に多様な人材を入れよう,と訴える.市民は特定専門家集団の情報提供が不十分であると判断し,不信感を強めてきた.その理由の一つは,狭い範囲の専門家の閉ざされた内輪の合意点を公表し,市民がそれに従うように強いるように感じられることであった.今後は「公開性と双方向性をもった科学コミュニケーションを目指し,市民との信頼関係を育てるように努めていきたいものだ.」
 所感:上記の最後は配布資料から引用したもの.科学者としての決意を感じる.

 パネル討論では,安全の判断は誰が行うかという議論が出た.
 唐木さん:純粋科学は一つの説に対して賛成・反対が出るのは当然.安全の科学は一致させるから結論が出る.
 小林さん:ICRPは純粋科学の団体ではなく,ある種の割り切りをする機関.ICPPも同様.ICRPによって安全の線引きはなされるが,その判断を金科玉条にするかは別の段階の議論である.
 首相官邸HPには「科学者からの提言は一致しなければならない」とあるそうである.(島薗さん発表より.)政府は一つの意見だけを出したために,市民が何を信じればいいのかわからず,市民の間で余計な諍いを発生したように感じる.科学的見解は複数ある,と宣言してもよかったのではないか.非常時においてパニックになるのは政府などのエリート層であるそうだ.愚劣な大衆には単純な情報提供を,とは思わないでほしい.

 小林さん:第4次科学術基本計画には原発に対してテクノロジーアセスメントを行うとある.
 非常に革新的な発想であるが,いきなり原発か.誰がやるのだ?サセックス大学でSTSの博士をとった人が東大にいるが,肩書き的にまだできない気がする.城山先生を頭に据えて,実質その人が行うのだろう.

 小林さんの最後のコメント「人文・社会系は自然科学系の人材育成に貢献してきたか?」が心に残った.私は自然科学系の訓練を受けてきたが,自分から得ようとしない限り,人文・社会系に触れることはなかった.自然科学系学部・研究科のカリキュラムを見る限り,教員が人文・社会系が必要だと思って実行に移しているのは少ない気がする.

 「提言」という言葉が多く使われていたが,大学の人の提言は実社会にどれほど影響を及ぼすのだろう?科学者の責任について深く考えるのがシンポジウムのテーマであったが,そもそも責任があるくらいの力を科学者は持っているのだろうか?企業人からすれば,大学が何を言おうとも企業はあまり気にしないような気がする.そして,提言だけされてもあまり責任感があるようには思えない.
 しかし,私は大学には期待する.長期的な考えは企業よりも大学の人の方が能力と時間の観点からできると思う.それを提言で終わらせるのではなく,ロビー活動など清濁合わせ込んだ行動を通して,実現への道筋をつくってほしい.提言だけではなく計画まで,できれば実行まで.

 司会が酷くて聞いていられなかったのは,ここで書くことではないな.

PS:
 会終了間際に,会場の男性が「私は東京大学名誉教授だ.私はここでみなさんが知らないことを伝えたい.」とわめき始めたときに,会場中がうんざりした.近くにいた年の近い男性が「そんなはしたないことはしなさんな」と言ったのに,私は大うけした.

4 件のコメント:

  1. もろもろやることがたまっていて行けませんでしたが,仮に行っていたらかなりフラストレーションをためて帰ってくることになったのではないかと思いました.
    わかりやすいまとめをありがとうございました

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  2. フラストレーションは,その後の東北大准教授との夕食でなくなりました.

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  3. 吉田省子です。
    フラストレーションを抱えることからの出発。

    司会については、
    結論じみたことも、方向をそろえることもしない・できない「語る」ことに力点を置いた場に、不慣れだったんだろうと思います。

    私は、司会の方の進行も含めた場であったと眺めていました。そんな観点からは、言いたくって仕方がないんだなあ、それではこの場を作れないのになあと思ってみていました。

    でもパフォーマンス的には、かわいかったです。

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  4. 科学者間での不一致が見つかったので,最低限の成果はあったように思います.
    小林先生の司会&パネリストの仕事ぶりに驚愕でした.

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