2010年8月25日水曜日

聞いた言葉12

Σを見ると,for文を思い出す.

-工学博士

2010年8月24日火曜日

石原壮一郎,ひさうちみちお「大人養成講座」

 大人の振る舞いができるようになる本.一杯目のビールの後の「カーッ!この一杯のために生きているんだよな~」など書いてあるので,ジョーク集かと思いきや,結構役立つことが書いてある.
 大人とは思っていることを言わないで,人間関係を潤滑にする術を知っている人たちのようだ.それはうそをついているわけでなく,お互いを思いやっているからこその心遣いなのだ.
 
評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)

2010年8月23日月曜日

立川談四楼「記憶する力 忘れない力」

 日経の夕刊のコラムが面白かったので,読んでみた.
 薄っぺらい「○○力」という系統の本ではなく,立川談志への弟子入りから今まで人生をつづった本である.
 ところどころ出てくる人生訓よりも,するっと書いてしまうところに大事なことを入れるのは落語家としての洒落っ気なのだろうか.
 一応言っておくと,記憶のコツは「集中して反復」することだそう.

評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)

2010年8月22日日曜日

大阪大学コミュニケーションデザイン・センター「Communication-Design 2」

「さまざまな偶然を受け入れる隙間を、創作活動に編み込む手法は、人を多様に結び付けるための、結節点となりうる可能性に満ちている。」

 ある発言がどのような意図を持つのか,それが異なることはよく知られている.その意図をもった発言が発言者から離れたときに,受け手がそれにどのような価値を抱くのかは,発言者の意図とは別に考えるべきものであろう.発言の価値は文脈依存でもあるが,その文脈を発言者とは異なる人間がつくるときがある.しかし,発言者は他人がつくる文脈を意識して発言しているかは,場合により異なる.
 ところで,論文は多くの場合,問題,解決手法,評価,結論,からなっている.問題設定をきちんとすることが物事の解決には最も重要なことである.自然科学系の論文では,解決手法には実験手法が述べられることが多いが,社会科学系では実践であることもある.そして,解決手法がどれほど有効であったのかを述べる.
 「Communication-Design 2」は様々な文章が寄せられている.多くの文章はこの論文の形式に則っている.
 しかし,最後の西川勝氏,宮本博史氏の文章は,この枠組みを外れた異質なものである.まず,問題設定がされていない.なので,解決手法は設定しようがない.宮本博史氏の犬島でのアートイベントに同行した紀行文を述べているだけのように読める.文章は上記の引用で締められるが,この気付きを発見しようとしたわけではなく,偶然発見しただけにしか思えない.これは論文であるとは言いがたい.
 この文章が本書以外のところにあるならば,非常に面白い文章というだけで終わりであろう.その文章で得られること以上のことは得られない.
 しかし,何故本書に入っているのかを考え始めると,自分の価値観は硬直していたのではないだろうか,という考えに至る.論文形式は知的生産様式として非常に価値のある形であり,これをもとに現在までの知識の構築の一端を担ってきた.しかし,それに外れたものは,知識ではないのだろうか?人類に貢献する知識は一通りでしか生産できないものなのだろうか?西川氏らの文章がここに入っていることで,本書は,知的生産様式に加担し,その権威を独り占めしている大学に対して一種の挑戦状を叩きつけているのではないか,と私は考える様になった.
 西川氏の意図はわからない.しかし,これを載せることにした編集部はとてつもない決断をしたように私は感じる.

 上記の私の文章を読んで,何故こんなに興奮しているのかわからない人は一般人であろう.そのくらい,私は大学を頂点とした知的生産様式に考えが硬直している.

評価:☆☆☆☆☆
(1-5で基本は2)

2010年8月21日土曜日

聞いた言葉11

仕事だから論文を書くのではない.研究者だから論文を書くんだ.
製品はいつか使われなくなるけど,論文は形になっていつまでも残る.

―研究者

2010年8月8日日曜日

上坂冬子「原発を見に行こう―アジア八ヵ国の現場を訪ねて」

「少なくとも私には文章で読む限り、インド側に論議としての正当性があるように思えてならない。」

 原発の素人である著者が,専門家と共にアジア各国の現場を訪ねた記録である.
 著者は自分を素人だと思っている.本人は素人にしかできない質問をしていると意気込んでいるようだが,実際は誰もが思いつく浅い質問を並べているだけであり,差しさわりのない回答をされるとそれ以上踏み込めない.素人であることは誇らしいことではなく,知識がなければ同じものを見ても得られる情報は少ない.本人がやるのは自由だが,よくもこんなレベルのものを本にしようと思ったものだ.
 知識がないため,原発以外も記述して紙幅を埋めているような旅行記の部分もある.与えられたページ数すら埋められないらしい.
 いろいろなものに興味を持って記述しているのだが,「~であろうか。」という言葉が多すぎる.相手と話していても,相手の言葉に対して自分がどう感じたかばかりを書いていて,これはただ自分との対話をしているだけの日記である.いろいろ調べ上げていこうという気持ちを感じない.著者は現場に行くことを重要に思っているようだが,結局現場にいって見聞きするだけで満足しているだけだ.
 そしてもっともひどいのが,ワシントン・ポスト紙とインド原子力委員会の二つの文章を読んだ際の感想である.二つの主張を読み上げるだけで判断する.この後に事実関係を調べた形跡はまったくない.読んだ時点の感想を述べるのは構わない.しかし,両者とも自分に都合の悪いことは隠している可能性があるので,それを調べた上で再度判断すべきであろう.
 
 久しぶりにこんなにひどい本を読んだ.この著者の本は一生読まないだろう.

評価:☆
(1-5で基本は2)

2010年8月7日土曜日

大阪大学コミュニケーションデザイン・センター「Communication-Design」

「「徳は教えうるか」と古人は問うた。
「コミュニケーションは設計しうるか」が我々の問いであろう。
いずれにせよ、立ち止まって、それを問うてはならない。」

 大阪大学コミュニケーションデザイン・センター(CSCD)ができたのは,2005年4月.小林は,「CSCDは日本の大学制度においては奇妙な組織といわざるを得ない」と言う.しかし,私には今までの「大学」の枠組みに捉われない組織をつくろう,という気概をCSCDからは感じない.むしろ,現代の社会状況を鑑みて,大学における必要な組織をつくったら自然とCSCDのような組織になった,と私は思っている.
 そんなCSCDの「成長記録」としての始めの一歩がこの本である.これから日本中,世界中にCSCDのような組織が生まれるかもしれない.私たちは,今,時代の変化の萌芽に触れることが出来る.

 この本は非売品だが,CSCDのHPで読むことが出来る.しかし,本の触感に触れることはできない.本とは,内容だけでなく,そのときの読者の五感をも記録する媒体である.

評価:☆☆☆☆
(1-5で基本は2)
http://cscd.osaka-u.ac.jp/about/CommunicationDesign2006.pdf