2009年6月13日土曜日

澤田昭夫「論文のレトリック」

「「何をいおうとしているのか解らない、どういう問題があってそれをどう解決したのか解らない」論文こそ「だめな論文」であります。よい論文とはその逆で「何をいおうとしているのかが一目瞭然、主問・副問が何であるかがはっきりしており、それに対して十分確証ある答えを与えている論文、つまり統一、連関、展開において優れた、明快な論文」です。」

論文の書くためには、何のために論文を書くのか、つまり問いが重要である。その問いの見つけ方から、論文の構造、そして論文を書くための読書の仕方やノートのとり方まで丁寧に書いてある。
明快な論文を書くようにと言っているだけあって、とてもわかりやすい。
文章を書く際にはまずここに書いてあることを復習してから書くのがよい。ずっと手元においておきたい本である。

評価:☆☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年6月6日土曜日

キェルケゴール著、斎藤信治訳「死に至る病」

「しかし我々は冒険さえすれば容易に失うことのないもの(よしほかにいかに多くのものを失おうとも)をかえって冒険しないために怖ろしいほどやすやすと失うことがありうるのである、――すなわち自己自身を。」

死に至る病とは絶望のことである。しかし、絶望では死ぬことはない。死ぬに死ねないことが絶望者の真実の姿なのである。
絶望により精神が腐っていってしまう。それも気付かぬ間に。

などと言っておきながら、全然理解できませんでした。第拾六話のサブタイトルに使われていたから興味を持って読んだけど、全然分からん。でも、面白いとは思った。分からないけど面白いと思えたのが、幸せだなと思った。
評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年6月5日金曜日

シェイクスピア、斎藤勇訳「リア王」

「「これが最悪」などと言える間は、まだ実際のどん底なのではない。」

娘の甘言に惑わされたため、荒野で暴風雨にあわなくてはいけなくなった可哀想なリア王。ケント伯と道化との道中が痛々しい。
何で、コーディリアはあんな最期を迎えてしまったのだ。シェークスピアは因果応報をよく書いているのに、コーディリアに関してはまったく当てはまらず。これで当時の観客の満足を得られたのかな。

評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)

2009年6月4日木曜日

シェイクスピア、三神勲訳「マクベス」

「人間なんてうろちょろする影法師、あわれな役者だ、
 自分の出番だけ舞台に出て、どたばたやるが、
 それっきり消えてしまう。人生はうす馬鹿のたわごとさ、
 むやみに泣いたりわめくだけで
 まるっきり無意味だ。」

マクベスを唆すマクベス夫人の方が悪者のように見える。
夫人の勧め通り凶行を重ねていくマクベスはやめようがなかったのかな。

評価:☆☆
(1-5で基本は2)


2009年6月3日水曜日

経済活動>ニセ科学?

日本経済新聞2009年5月31日エコノ探偵団のテーマはコラーゲン。
コラーゲンを「食べてきれいに」という見出しがある。日本ハムの研究者の話として「食べた後に体内でどう作用するのかは分かっていませんが、肌の水分量を保てる実験結果が出ています」と書いてある。

実際の話、コラーゲンはプラセボである。つまり、美容効果は認められていない。体内でコラーゲンは多く作られているが、体外から摂取した場合にはそのコラーゲンを活用できず排出している。
昔電機業界がマイナスイオンを仕掛けたように、コラーゲンを誰かが売り出そうとしているに過ぎない。しかし、日経はこのことを報じない。あくまで日経は経済活動を補助する立場にいるという姿勢は崩さないようだ。そんなに経済活動とは重要なものなのであろうか?

2009年6月1日月曜日

小飼弾「小飼弾のアルファギークに逢ってきた」

その世界(まつもとゆきひろをMatzと言うような人たちの世界)では小飼弾は有名なようだが、私は一切知らなかった。その小飼弾と世界中のコンピュータエンジニアとの対談集である。
一流のコンピュータ技術者になれば、どこの世界でも渡っていけるのだろう。一介の技術者として世界を変えるような製品をつくりたいなと思った。

評価:☆☆
(1-5で基本は2)

2009年5月31日日曜日

増田四郎「ヨーロッパとは何か」

「西ヨーロッパでは社会生活をおおむね法律関係においてとらえ、法的なルールをうちたて、それを慣習法として守りぬこうとする意識が一貫して歴史を流れている。それはとりもなおさず一方的な支配に対する抵抗の姿勢であり、時いたれば、それを拡大して、国制をも左右するほどの力となりうる団体意識の源泉なのである。」

明治時代にヨーロッパの思想や制度を日本は取り込んだのだが、その精神基盤は取り込まなかったため、上滑りであったというのは現代でもよく聞かれることである。例えば、クローン人間を禁止するか否かの問題を突き詰めていくと、日本の場合は最終的に頼るべき基準がなくなってしまう。一方、ヨーロッパでは、キリスト教が最終判断材料となり、ローマ教皇の意見が大きく決定に影響する。

そもそも日本人には「公」の発想がヨーロッパについて貧弱、もしくは存在しないと言われる。「公=官、私=民」と日本人は考えがちだが、自分達で自治意識を持ってみんなが使う場所を整理していくのは公の発想であり、わざわざ政府に頼る必要のないことである。

では、何故ヨーロッパは日本には存在しない発想を持っているのか。その疑問を解消するのがこの本である。

評価:☆☆
(1-5で基本は2)