「格差問題の是非を論じるときは、経済学が合理的かつ科学的に分析して、実態を判断する際の客観的な資料を提供できます。しかし、人々の価値判断にも依存するところも少なくありません。」
筆者の結論としては、高齢者と若者の貧困は増加している、とのこと。
私は興味を持ったのは上記の経済学へのとらえ方である。これはまさに、現代の科学者の仕事である。現在はトランス・サイエンスの時代である。つまり、小林傳司のいう「科学によって問うことはできるが、科学によって答えることのできな問題群からなる領域」である。(「小林傳司「トランス・サイエンスの時代」」)その際、「科学者は社会や政治と切り離され、自らが生み出した客観的で中立的な知識を、知識として意思決定の世界、つまり政治に差し出」さなくてはいけない。
そもそも経済学者は貧困と分配問題を解決したいという欲求で研究を行っていることが多いそうである。(宇沢弘文「経済学の考え方」)そして、本文の最後では筆者は「私が示したような実態や考察を参考に、日本にとってふさわしい選択肢を、国民に選んでもらいたいと私は希望します。」といっている。あくまで、学者は自分で調べた結果を提出するのみであり、決定は国民が行うものであると考えている。
この流れの中では、国民一人ひとりがどのような社会をつくっていきたいのかを考えていかなくてはいけないが、それは今までやってこなかったという観点で言えば、なかなか大変なことである。
追記:
若者が企業を目指して、大企業に人が集まらなくなると、日本経済の中核部分の企業に「翳り」が見られて、また、開業医が増えると大病院の人材が育たないと日本の医療水準が低下するという懸念を持っているようだが、本当かなあ?
評価:☆☆
(1-5で基本は2)
2009年5月30日土曜日
2009年5月29日金曜日
チェーホフ著、中村白葉訳「かもめ」
「一度創造の喜びを経験した人にとつては、もうそれ以外の楽しみはある筈ないつて。」
この言葉を実感できますか?
私はまだわからないし、今後経験してみたいが自分がそこまで達せられるかがわからない。
研究はとても面白いと言う人は世の中にはたくさんいるし、私の周りにも結構いる。そういう人にこの質問をしたら、同意してくれるのかな。
評価:☆☆
(1-5で基本は2)
この言葉を実感できますか?
私はまだわからないし、今後経験してみたいが自分がそこまで達せられるかがわからない。
研究はとても面白いと言う人は世の中にはたくさんいるし、私の周りにも結構いる。そういう人にこの質問をしたら、同意してくれるのかな。
評価:☆☆
(1-5で基本は2)
2009年5月28日木曜日
勝間和代「断る力」
「コモディティはコスト、スペシャリティは投資」
何でもかんでも仕事を引き受けていると、便利屋になってしまう。「何でも出来る=何にも出来ない」というつながりはあると思う。それよりは、自分がどうなりたいかを考えて、スペシャリストを目指した方が将来は安全である。多くの場合において、コモディティは在籍している会社などある一定の組織においては重要であるが、他の組織から見た場合、そのスキルはあまり有効ではない。一年ごとに履歴書を書いて何ができるかを意識する、という考え方があるそうで、それは自分の能力を客観的に見る上で非常に価値があると思う。
断ることを怖がる人には、筆者は「断ることのデメリットは何か」を説く。そんなものは意外とない。もちろん、ただ断るだけではなく、代替案を提示することが望ましい。(まあ、毎回出来たら苦労しないけどさ。)
表紙の、勝間さんの厳しい表情が印象的な本。
評価:☆☆
(1-5で基本は2)
何でもかんでも仕事を引き受けていると、便利屋になってしまう。「何でも出来る=何にも出来ない」というつながりはあると思う。それよりは、自分がどうなりたいかを考えて、スペシャリストを目指した方が将来は安全である。多くの場合において、コモディティは在籍している会社などある一定の組織においては重要であるが、他の組織から見た場合、そのスキルはあまり有効ではない。一年ごとに履歴書を書いて何ができるかを意識する、という考え方があるそうで、それは自分の能力を客観的に見る上で非常に価値があると思う。
断ることを怖がる人には、筆者は「断ることのデメリットは何か」を説く。そんなものは意外とない。もちろん、ただ断るだけではなく、代替案を提示することが望ましい。(まあ、毎回出来たら苦労しないけどさ。)
表紙の、勝間さんの厳しい表情が印象的な本。
評価:☆☆
(1-5で基本は2)
2009年5月24日日曜日
西成活裕「渋滞学」
「最も言いたかったのが分野横断的な人材の必要性である。」
もともとは「爆笑問題のニッポンの教養」で観たのが初めてだった。渋滞学というとこの人のやっていることは制限されてしまうだろう。現実問題に対して数学を適用してモデルをつくり、いかにして解決するかがこの人の関心であろう。そのため、本書で解説されているのは、いわゆる渋滞と言われる車の渋滞や、避難経路を考慮する人の渋滞、そして森林火災やインターネット上の渋滞まで様々である。しかし、行っていることはすべて適切なモデルを作成することである。
現実の問題解決には多くの知識が必要とされる。現在の大学教育では、理学と工学の差が大きくなってきているので、その両方を持った人間が必要であると著者は説いている。
理学は基礎追究をした方がいいか、という問題はあるだろうが、現実問題を解決したいという学生の意志を達成できるような制度つくりは必要であろう。
評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)
もともとは「爆笑問題のニッポンの教養」で観たのが初めてだった。渋滞学というとこの人のやっていることは制限されてしまうだろう。現実問題に対して数学を適用してモデルをつくり、いかにして解決するかがこの人の関心であろう。そのため、本書で解説されているのは、いわゆる渋滞と言われる車の渋滞や、避難経路を考慮する人の渋滞、そして森林火災やインターネット上の渋滞まで様々である。しかし、行っていることはすべて適切なモデルを作成することである。
現実の問題解決には多くの知識が必要とされる。現在の大学教育では、理学と工学の差が大きくなってきているので、その両方を持った人間が必要であると著者は説いている。
理学は基礎追究をした方がいいか、という問題はあるだろうが、現実問題を解決したいという学生の意志を達成できるような制度つくりは必要であろう。
評価:☆☆☆
(1-5で基本は2)
2009年5月22日金曜日
ショウペンハウエル著、斎藤忍随訳「読書について 他二篇」
「読書とは他人にものを考えてもらうことである。」
ショウペンハウエルによれば、読書ばかりしていてはダメで、思索をしなくてはいけない。「自分の思索で獲得した真理であれば、その価値は書中の真理の百倍にもまさる。」そうである。
「良書を読むための条件は、悪書を読まぬこと」というのも興味深い。私は昔から、流行書の類はほとんど読まない。むしろ、名著であると長らく言われているものを読む傾向にある。これは他人が選別をした後に自分がいいところをとっていっているとも思えるが、最近出版されたから、という理由以外によって残っている本はやはり読んでいて心を耕してくれるように感じる。
「他二篇」のうちの一篇「著作と文体」には、文章を書く際には「もっとも心すべきは、自分に備わっている以上の精神を示そうとして、見えすいた努力をしないこと」とある。わかっていないことは書かない、とても当たり前に聞こえるが、世の中にはそれがわかっていない人がなかなか多い。ショウペンハウエルはわかっていることしか書いていないのであろう、この本はとてもわかりやすい。
評価:☆☆☆☆
(1-5で基本は2)
ショウペンハウエルによれば、読書ばかりしていてはダメで、思索をしなくてはいけない。「自分の思索で獲得した真理であれば、その価値は書中の真理の百倍にもまさる。」そうである。
「良書を読むための条件は、悪書を読まぬこと」というのも興味深い。私は昔から、流行書の類はほとんど読まない。むしろ、名著であると長らく言われているものを読む傾向にある。これは他人が選別をした後に自分がいいところをとっていっているとも思えるが、最近出版されたから、という理由以外によって残っている本はやはり読んでいて心を耕してくれるように感じる。
「他二篇」のうちの一篇「著作と文体」には、文章を書く際には「もっとも心すべきは、自分に備わっている以上の精神を示そうとして、見えすいた努力をしないこと」とある。わかっていないことは書かない、とても当たり前に聞こえるが、世の中にはそれがわかっていない人がなかなか多い。ショウペンハウエルはわかっていることしか書いていないのであろう、この本はとてもわかりやすい。
評価:☆☆☆☆
(1-5で基本は2)
2009年4月26日日曜日
「科学技術と社会の相互作用」第2回シンポジウム
「科学技術と社会の相互作用」第2回シンポジウムに参加した。
こういうのに参加するたびに同窓会気分になるのはいいことなのか、よくないことなのか。当然のごとく2次会まで参加して帰宅。
今日良くなかったこと:
ポットの使い方がわからずに、白いテーブルカバーにコーヒーをどぼどぼこぼしてしまったこと。
まずは平成20年度採択プロジェクトからの発表。
「地域主導型科学者コミュニティの創生」というプロジェクトの発表が面白かった。地域社会で問題となっていることを科学で解決しようとしている。それらの問題は過疎化などの社会問題もあるだろうが、今回は環境に特化して行っているそうだ。何故なら、環境はその問題に特化して解決する必要が特にあること、そしてこちらの理由の方が大事なようだが、地域の住民がローカルノレッジを持ち寄って主体的に解決しようとするそうだ。科学は誰のものかという私の疑問の回答の一つとして非常に興味深い。
「海域環境再生(里海創生)社会システムの構築」の自然観も面白かった。里山があるように自然は人間が少し手を入れてやるほうがいいそうだ。その海に対応する概念としての「里海」である。上海での国際会議でも「sato-umi」という言葉で宣言に盛り込まれていた。欧米の自然観では核に保護地域があり、そのまわりにバッファーがあり、そのまわりに人間の活動地域があるが、Sato-umiの中に海文化と「鎮守の海」があると発表者は考えている。もちろん、どちらがいいというわけではないが、新しい自然観を提示することで、新しい科学や新しい環境への考え方をつくっていくのが面白い。
ここからはパネルディスカッションである。
「システムが倫理をつくるなら個人に責任を負わせるのは無理。」
確かにそうだが、一体システムは誰がつくっているのだろうと疑問になった。何となくでできていくのか?
「法廷で裁判官の科学観はひどいもの。昭和50年10月24日のハンバール事件判決には「一点の疑義も許されない自然科学的証明」という言葉がある。少しでも自然科学をやっていればこのような科学観を持つわけがない。」
このような状態だから、科学者はすべて知っている、科学に不確実性はない、という誤った科学観を持っている裁判官が、弁護士や検察が持ってきた「科学的証拠」を判定すれば、市民が「一般通念」だと思う判断とは異なることは当然である。この登壇者に以前、フランスでは対立する科学的証拠は両論併記するが、日本ではどちらかのみが正しいと判定すると教えてもらった。
「こんな状態なのに、日本学術会議の科学者の行動規範で「科学をコミュニティに還元せよ」と謳われている。」
これなら、裁判所に行きたがる科学者がいるわけはない。迫害されるところに行きたがる人はいない。
法廷では予防原則という概念はごく一部の裁判官しか持ち合わせていないそうだ。
全般的に気になったのは、今回のシンポジウムは「科学技術と社会の相互作用」であり、発表原稿のタイトルには「科学技術」という言葉が入っているのに、発表中はほとんど「科学」の話で「技術」が出てこないことである。「研究者」という言葉も大学や公的機関の研究者をイメージして話されており、企業の中央研究所の基礎科学の研究者や、技術者はスコープから外れているようだ。私が考える理由は2つある。1つ目は現在の科学技術社会論の研究者が科学史、科学哲学出身者が多いため、自分の得意分野からものを眺めているという理由。もう1つは、技術は社会に出て消費者によって「役に立つ」「必要性」をチェックされるが、科学は自分の好奇心を満たすもの、だから社会とどのように付き合わせればいいのかという問題を立てやすいことがある。このとき話題になるのは、科学の中でも特に「それって何の役に立つの?」と言われるものが多い。工学に近い科学はあまり具体例にならない。もちろん、2つ目に関しては技術者倫理は工学系の人が行っているからわざわざ自分達がやらなくてもいいという気持ちもあるだろう。
飲み会の席で「何で技術の話をしないのですか?」と尋ねたら「あんまり技術の話に関わりたくない」という非常に明快な回答をもらって、私は納得した。
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こういうのに参加するたびに同窓会気分になるのはいいことなのか、よくないことなのか。当然のごとく2次会まで参加して帰宅。
今日良くなかったこと:
ポットの使い方がわからずに、白いテーブルカバーにコーヒーをどぼどぼこぼしてしまったこと。
まずは平成20年度採択プロジェクトからの発表。
「地域主導型科学者コミュニティの創生」というプロジェクトの発表が面白かった。地域社会で問題となっていることを科学で解決しようとしている。それらの問題は過疎化などの社会問題もあるだろうが、今回は環境に特化して行っているそうだ。何故なら、環境はその問題に特化して解決する必要が特にあること、そしてこちらの理由の方が大事なようだが、地域の住民がローカルノレッジを持ち寄って主体的に解決しようとするそうだ。科学は誰のものかという私の疑問の回答の一つとして非常に興味深い。
「海域環境再生(里海創生)社会システムの構築」の自然観も面白かった。里山があるように自然は人間が少し手を入れてやるほうがいいそうだ。その海に対応する概念としての「里海」である。上海での国際会議でも「sato-umi」という言葉で宣言に盛り込まれていた。欧米の自然観では核に保護地域があり、そのまわりにバッファーがあり、そのまわりに人間の活動地域があるが、Sato-umiの中に海文化と「鎮守の海」があると発表者は考えている。もちろん、どちらがいいというわけではないが、新しい自然観を提示することで、新しい科学や新しい環境への考え方をつくっていくのが面白い。
ここからはパネルディスカッションである。
「システムが倫理をつくるなら個人に責任を負わせるのは無理。」
確かにそうだが、一体システムは誰がつくっているのだろうと疑問になった。何となくでできていくのか?
「法廷で裁判官の科学観はひどいもの。昭和50年10月24日のハンバール事件判決には「一点の疑義も許されない自然科学的証明」という言葉がある。少しでも自然科学をやっていればこのような科学観を持つわけがない。」
このような状態だから、科学者はすべて知っている、科学に不確実性はない、という誤った科学観を持っている裁判官が、弁護士や検察が持ってきた「科学的証拠」を判定すれば、市民が「一般通念」だと思う判断とは異なることは当然である。この登壇者に以前、フランスでは対立する科学的証拠は両論併記するが、日本ではどちらかのみが正しいと判定すると教えてもらった。
「こんな状態なのに、日本学術会議の科学者の行動規範で「科学をコミュニティに還元せよ」と謳われている。」
これなら、裁判所に行きたがる科学者がいるわけはない。迫害されるところに行きたがる人はいない。
法廷では予防原則という概念はごく一部の裁判官しか持ち合わせていないそうだ。
全般的に気になったのは、今回のシンポジウムは「科学技術と社会の相互作用」であり、発表原稿のタイトルには「科学技術」という言葉が入っているのに、発表中はほとんど「科学」の話で「技術」が出てこないことである。「研究者」という言葉も大学や公的機関の研究者をイメージして話されており、企業の中央研究所の基礎科学の研究者や、技術者はスコープから外れているようだ。私が考える理由は2つある。1つ目は現在の科学技術社会論の研究者が科学史、科学哲学出身者が多いため、自分の得意分野からものを眺めているという理由。もう1つは、技術は社会に出て消費者によって「役に立つ」「必要性」をチェックされるが、科学は自分の好奇心を満たすもの、だから社会とどのように付き合わせればいいのかという問題を立てやすいことがある。このとき話題になるのは、科学の中でも特に「それって何の役に立つの?」と言われるものが多い。工学に近い科学はあまり具体例にならない。もちろん、2つ目に関しては技術者倫理は工学系の人が行っているからわざわざ自分達がやらなくてもいいという気持ちもあるだろう。
飲み会の席で「何で技術の話をしないのですか?」と尋ねたら「あんまり技術の話に関わりたくない」という非常に明快な回答をもらって、私は納得した。
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2009年3月21日土曜日
国の科学技術・イノベーション戦略と学協会の役割
ワークショップに行った。
国の科学技術・イノベーション戦略と学協会の役割~日本型研究・政策コミュニティの形成に向けて~
科学技術政策をどのように行うのか、科学者、社会学者、シンクタンク、ベンチャーのコンサルタント、企業人、理系大学院生、文系大学院生、国の研究機関など様々な人間の立場から議論した。
私の班で出た最大の問題点は、政策研究のシンクタンクが少ない(ない?)ことである。これは財団法人未来工学研究所の人が何度も嘆いていた。少ない理由は簡単に言えば、お金の問題である。「企業がCSRとして政策研究シンクタンクに寄付する」という私の意見に強く賛同していた。ただ、実は、NPOが数多く存在し寄付文化が根付いているアメリカと比べても、日本企業の寄付はアメリカと遜色がない。日本は個人の寄付が少ないのである。額にして100倍の差であるが、日本とアメリカのGDP比は2倍程度である。
私が企業人として感じる問題点は、私がどこで発言しようとも企業人として見られることである。私が勤務先の企業を離れて論じていても、周りからは利益誘導にとられてしまう。すると、目立たないように審議会や委員会に参加することになり、むしろ政策決定過程の不透明さを生んでしまう。
科学技術政策には経団連が関与する。しかし、中小企業の意見は参考程度に聞くそうだ。パブリックコメント同様、役人の言い訳に使われてしまう。
科学技術政策に関して政治家に頼るのは難しいと思う。川田龍平参議院議員が薬害に取り組んでいるように科学技術政策を考えている議員は少ない。理由は簡単、票がとれないからである。もちろん、関心を寄せていない有権者にも原因がある。議員自体の科学リテラシーが低いのも問題だ。大学の学部だけで科学リテラシーをはかるのは浅薄であるのはわかっているが、日本の議員、閣僚の理系比率は先進諸国と比べると低い。
国の科学技術・イノベーション戦略と学協会の役割~日本型研究・政策コミュニティの形成に向けて~
科学技術政策をどのように行うのか、科学者、社会学者、シンクタンク、ベンチャーのコンサルタント、企業人、理系大学院生、文系大学院生、国の研究機関など様々な人間の立場から議論した。
私の班で出た最大の問題点は、政策研究のシンクタンクが少ない(ない?)ことである。これは財団法人未来工学研究所の人が何度も嘆いていた。少ない理由は簡単に言えば、お金の問題である。「企業がCSRとして政策研究シンクタンクに寄付する」という私の意見に強く賛同していた。ただ、実は、NPOが数多く存在し寄付文化が根付いているアメリカと比べても、日本企業の寄付はアメリカと遜色がない。日本は個人の寄付が少ないのである。額にして100倍の差であるが、日本とアメリカのGDP比は2倍程度である。
私が企業人として感じる問題点は、私がどこで発言しようとも企業人として見られることである。私が勤務先の企業を離れて論じていても、周りからは利益誘導にとられてしまう。すると、目立たないように審議会や委員会に参加することになり、むしろ政策決定過程の不透明さを生んでしまう。
科学技術政策には経団連が関与する。しかし、中小企業の意見は参考程度に聞くそうだ。パブリックコメント同様、役人の言い訳に使われてしまう。
科学技術政策に関して政治家に頼るのは難しいと思う。川田龍平参議院議員が薬害に取り組んでいるように科学技術政策を考えている議員は少ない。理由は簡単、票がとれないからである。もちろん、関心を寄せていない有権者にも原因がある。議員自体の科学リテラシーが低いのも問題だ。大学の学部だけで科学リテラシーをはかるのは浅薄であるのはわかっているが、日本の議員、閣僚の理系比率は先進諸国と比べると低い。
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